追貝村(読み)おつかいむら

日本歴史地名大系 「追貝村」の解説

追貝村
おつかいむら

[現在地名]利根村追貝

高戸屋たかとや村の片品かたしな川対岸に位置。会津街道片品川の追貝橋を渡って当地に至り、片品川沿いに北上戸倉とくら関所(現片品村)に向かう。また当地から大楊おおよう老神おいがみ穴原あなばらを経てコムギ峠を越え、根利ねりから大間々おおまま(現山田郡大間々町)に向かう道があり、大間々街道とよんだ。「沼田根元記」に赤城明神日光権現の神戦伝説が記され(→老神村、赤城明神が日光権現を追返した所が当地で、地名が生れたという。

利根郡に属し、寛文郷帳によると田方八石余・畑方三四五石余、沼田藩領。寛文三年(一六六三)の真田領村高書上控では高一千五九三石余。貞享二年(一六八五)旧真田領村高書上控では高二一六石余。なお天和元年(一六八一)の郷村品々記録(小林文書)に「追貝村之内」として千鳥ちどり新田栗原くりばら新田(高二〇石余)が記される。当地の小字に栗原があり(郡村誌)、栗原新田はこの地であったと思われる。天保三年(一八三二)村では薬用人参試作願(星野文書)を幕府代官所に出しているが、それには「先年村内家数百廿軒、人数五百余人有之、当時家数百七軒、人数三百余人ニ相減シ、剰独身之百姓拾八軒、右ニ付手余り荒地多分ニ相成、高持一同及困窮」とあり、このまま放置すれば年貢も納められない事態になるので、国益になることでもあり植付けを許可してほしいと述べている。なお「奥州会津様御領分耕作御種人参、(中略)御種売買さへ御停止ニて羨鋪存罷候処、当春中より御種相対売買ニ相成候風聞承り」ともあり、薬用人参の栽培が自由には行えず、換金作物として羨望の的であったことが知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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