戸倉村(読み)とくらむら

日本歴史地名大系 「戸倉村」の解説

戸倉村
とくらむら

[現在地名]あきる野市戸倉

あき川の上流域に立地し、東は小中野こなかの村、西は乙津おつ村、北は養沢ようざわ村。天正二年(一五七四)八月一一日の讃岐用人回状写(風土記稿)の宛所に秋川流域の村々の一つとして戸倉がみえ、讃岐用人が各村当番衆に讃岐役所への集合を命じたものとされるが、文言は近世的で検討を要する。戸倉には鎮守三島みしま神社と臨済宗光厳こうごん寺があり、同寺裏山はしろ山とよばれる。城山の戸倉城は室町時代に小宮氏によって築かれ、戦国期に大石道俊が居城滝山たきやま(現八王子市)を養子北条氏照に譲ってこの城に隠棲したという。戸倉城跡は都指定史跡。天正一六年正月九日の北条氏照朱印状写(風土記稿)によれば、氏照は西戸蔵にしとくらに宛てて豊臣秀吉軍の来攻に備えて郷内の男子を動員し、隣村檜原ひのはら(現檜原村)の平山右衛門大夫の指揮下に入り、加勢をするよう命じている。戸倉村はもと戸倉・乙津・小中野・養沢の四ヵ村で一村で、西戸倉の内を割いて乙津村星竹ほしだけの内を割いて養沢村が立てられたという(風土記稿)


戸倉村
とくらむら

[現在地名]片品村戸倉

土出つちいで村の北、片品川沿いに位置し、会津街道が通る。同街道は当地から北東方に蛇行しながら尾瀬おぜ沼に至る。「加沢記」に永禄一二年(一五六九)沼田顕泰勢が会津街道で土出に至り、さらに「戸倉の山中に入給ふ」とみえる。慶長五年(一六〇〇)関所が置かれ、天和元年(一六八一)郷村品々記録(小林文書)の「沼田領より他領出口之事」に「戸倉 是ハ奥州若松通」とある。


戸倉村
とくらむら

[現在地名]夢前町戸倉

護持ごじ村の北、菅生すごう川中流域に位置し、東は戸倉峠を挟み高長こうちよう村。慶長国絵図に「とくら」とみえる。正保郷帳では莇野あぞの村に含まれた。貞享元年(一六八四)の本多忠国領知目録(本多家文書)に独立して村名がみえる。元禄郷帳には「古ハ莇野村」と注記され、高二六四石余。宝永年間(一七〇四―一一)の前之庄組高反別帳写(清瀬家文書)では高二五八石余、反別は田方七町五反余・畑方一八町余、免四ツ九分、人数三七四。


戸倉村
とぐらむら

[現在地名]波賀町戸倉

引原ひきはら川の最上流域に位置し、南は鹿伏しかぶし村、東は道谷どうだに村。西の戸倉峠を越えて因幡国へ至る道が通る。土倉村とも記され(「寛文朱印留」など)、現在行政上は「とくら」という。領主の変遷はたに村と同じ。正保郷帳では土倉村とみえ、田方五石余・畠方三八石余。


戸倉村
とくらむら

[現在地名]立田村戸倉

鵜戸うど川に囲まれた水郷村で、南は脇野わきの新田村、西と北は葛木かずらき村に接する。「徇行記」によれば、概高四三七石余はすべて蔵入地で、田は九町八反三畝余、畑は七町二反五畝余。「寛文覚書」に戸数四一、人数二〇〇とある。「徇行記」は「此村ヘ早尾村新右衛門新田ヨリ枝川流レ落合、田面ヘ落タマリ卑湿ノ地ナル故ニ稲梁ミノラス堀田ナト多クアリ、畠ハ皆村傍ニアリ、村内ハ地高ク砂地ナリ、村人元ヨリ農業ヲ以テ生産トスレトモ、水郷ナレハ余力ニハ鳥魚殺生ナトシテ生産ノ助ケトセリ」とし、一向宗東派の陽南ようなん寺を記す。


戸倉村
とくらむら

[現在地名]龍山村戸倉

大嶺おおみね村の東、天竜川左岸にあり、秋葉山西麓に位置する。「遠江国風土記伝」には村名は行基の刻んだ浮屠(仏陀)を納める蔵が置かれたことに由来すると記され、里として雲折くもり(久森)をあげる。正保郷帳に戸倉村とあり永高六貫九二四文、幕府領。うち寺社領三五七文。元禄郷帳では高四二石余。旧高旧領取調帳では幕府領四〇石余と秋葉寺(現春野町)領一石余・東福寺(現曹洞宗)除地二斗余・観音堂除地三斗余・地蔵除地三斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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