江戸初期の黄檗(おうばく)宗の禅僧。逸然は道号、法諱(ほうき)は性融(しょうゆう)。明国浙江省杭州府銭塘県(みんこくせっこうしょうこうしゅうふせんとうけん)の出身で俗姓李氏。1641年(寛永18)長崎に薬種商として渡来。1644年(正保1)黙子如定(もくすにょじょう)について出家し、翌年に長崎の興福寺第3代住持となる。隠元隆琦(いんげんりゅうき)の招請に尽力し、1654年(承応3)隠元が来日すると、興福寺に迎えて住持とする。1668年(寛文8)7月14日、68歳で寂し、塔は長崎の興福寺と宇治の黄檗山万福寺にある。1657年(明暦3)に費隠通容(ひいんつうよう)著『五灯厳統』、『隠元語録』などを出版した。中国画の新しい画風を伝えた人物として重視され、「唐絵」の開祖などと称される。仏画や人物画に長じ「観音図」(万福寺蔵)などがあり、門下に長崎の一画派である河村派祖の河村若芝(かわむらじゃくし)(一説に1707年没)、渡辺秀石(わたなべしゅうせき)(1639―1707)がいる。
[竹貫元勝]
『木村得玄著『黄檗宗の歴史・人物・文化』(2005・春秋社)』▽『木村得玄著『初期黄檗派の僧たち』(2007・春秋社)』
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…また渡来した黄檗僧たちは,文人の墨戯としての四君子画や,略筆の観音像を得意とするものが多かった。隠元より早く来日し,隠元を日本に招くのに貢献した逸然は観音像を手がけ,万福寺15代住持の大鵬正鯤(たいほうせいこん)(1691‐1774)の墨竹はなかでもすぐれている。長崎出身の僧鶴亭(?‐1785)はこうした墨戯を上方画壇にひろめる役割を果たした。…
…(1)黄檗(おうばく)派は,黄檗宗の中国僧によって伝えられた写実的な高僧肖像画を学び,喜多元規らの肖像画家を生んだ(黄檗美術)。(2)漢画派は,1644年(正保1)に来朝した黄檗僧逸然(1600か01‐68)を祖とし,河村若芝(1629か38‐1707),渡辺秀石(1639‐1707)らが謹厳な北宗画風の絵を描き,秀石は唐絵目利職につくなど,長崎派の主流となった。(3)南蘋(なんぴん)派は,1731年(享保16)に渡来した沈銓(しんせん)(南蘋)にはじまる。…
※「逸然」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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