仏像や仏教説話を描いた絵画。堂,塔などの建造物に描いた荘厳画(しようごんが)に始まり,のちに教化のための信仰礼拝用の仏画が描かれるようになる。インドでは前2世紀以降,バールフットやサーンチーのストゥーパstūpa(塔)の門や欄楯(らんじゆん)に本生図(ジャータカjātaka。釈尊前世の修行物語)や仏伝図(釈尊の一代記)などが緻密に浮彫されており,これらは仏像出現以後もガンダーラやアマラーバティーなどの彫刻にもみられ,中央アジアをへて雲岡石窟にまで及んでいる。こうした本生図や仏伝図は彫刻のみならず,絵画として仏典にも記され,紀元前より寺院内に描かれていたと思われるが,遺品となると5~6世紀をまたねばならない。仏画はその目的や用途に応じて形式を異にし,素材も選択される。
(1)壁画 (a)土壁 インドのアジャンターやバーミヤーン壁画が古く,中央アジアのミーラーン,キジル,アスターナやベゼクリク,中国への入口の敦煌千仏洞など,現存する壁画のほとんどが石窟寺院内の壁画である。文献によれば,南北朝時代には木造寺院にも壁画がみられ,唐代になって隆盛をきわめる。この流れが日本に流入し,法隆寺金堂壁画となる。土壁への壁画は,砂や植物繊維を混えた泥土を塗り重ねて壁下地とし,インドや西域では石膏や石灰,敦煌や法隆寺などでは白土(ケイ酸バン土)を塗り,その上に彩色を施す。(b)板壁 木造寺院内の壁面に板を並べ,それに彩色を施した板壁の壁画は,土壁についで古くより行われていたようであるが,日本に現存するものは,ほとんどが平安時代以降のものである。板絵壁画の最古の遺例は奈良時代の栄山寺八角堂で,平安時代に入り室生寺金堂,醍醐寺五重塔,平等院鳳凰堂,富貴寺大堂,浄瑠璃寺三重塔,鎌倉時代には海住山寺五重塔,大報恩寺釈迦堂,称名寺金堂などの壁画があるが,室町時代には凋落する。板壁は縦長の板を横に並べて画面を構成し,板の継ぎ目に充塡剤をつめる。漆下地の上に白土を塗り,下地ごしらえして顔料を塗って彩色を施す。板壁の下地は平滑のため運筆が容易で描写も緻密化するが,日本では地震や台風が多く,湿度が高くて,カビの発生しやすい風土的特性から,土壁より耐久性に富むため板壁が発達したものと思われる。(c)貼付絵 平安時代になり,和風建築が発達するにつれて壁面も縮小したため,あらかじめ絹地に描いたものを,直接壁に貼り付ける貼付絵が行われるようになる。法隆寺献納宝物の《聖徳太子絵伝》(東京国立博物館)は五隻の額装に改修されているが,もとは法隆寺絵殿(えどの)に貼り付けられていた。
(2)厨子絵(ずしえ) 屋根や扉をもち,寺院を小型化した厨子は,中に仏像や舎利を納置して屋内に持ち込み,礼拝の対象としたものであり,厨子の内外には,荘厳のため仏画が描かれる。日本における最古の厨子絵は,《玉虫厨子》や橘夫人念持仏厨子(法隆寺。7世紀中~末期)にみられる。ともに上部の宮殿部と下部の須弥座からなる。平安時代は遺品に乏しく,鎌倉時代になると,正方形もしくは長方形の箱形厨子となり,表面は黒漆で仕上げられ,内部に仏画が描かれる。吉祥天厨子(東京芸術大学,浄瑠璃寺旧蔵),弥勒厨子(興福寺),文殊厨子(唐招提寺)などが知られる。また紐をつけて肩から掛け,内部に仏画を描き,舎利を収めなどする小型厨子も流行した。厨子絵に描かれる諸尊の配置は,堂内壁画と密接な関係があり,壁画の伝統性をよく保持し,壁画形式を脱皮しえないまでも,堂内の所要の個所に安置することができるため,厨子絵によって仏画はようやく寺院壁画から離脱して,移動の自由を獲得するにいたった。
(3)額絵 仏台や牙台と呼ばれる台上に柱を立てて〈補陀落山浄土変〉や〈薬師浄土変〉の額絵を装着する記載が《西大寺流記資財帳》(宝亀11年(780)奥書)にあり〈障子絵〉と注記され,この額絵形式は古くから存することが知られる。この種の遺品としてはわずかに《吉祥天像》(薬師寺)がある。《法然上人絵伝》や《北野天神縁起絵巻》などに散見する小型額絵に見るごとく,額絵も時代とともに縮小化の傾向がみられる。額絵は壁面から独立して安置する移動性を得たが,収蔵には不便であり,画面毀損のおそれもあって,小型化への道をたどったものの,衰微せざるを得なかった。
(4)屛風 正倉院の屛風は,各扇独立の構図で縁をめぐらし,周りの環に紐を通して各扇をつなぎ合わせており,額絵を連結する古様を示している。平安時代になると各扇が折りたためるようになり,六曲屛風を広げると,統一した画面となるものが描かれた。このようなものとして真言宗の灌頂儀式に用いられた世俗画風の《山水(せんずい)屛風》(京都国立博物館,教王護国寺旧蔵)がある。これに対して各扇に一天ずつを配する鎌倉初期の《十二天屛風》(教王護国寺,神護寺)は,各扇独立構図の古様を継承している。屛風は展開すれば大画面となり,折りたためば縮小されるため,移動・収納が容易となり,画面は壁面から完全に独立することとなった。
(5)懸(掛)幅 《大安寺伽藍縁起流記資財帳》(天平19年(747)奥書)に〈仏懸緑綱四条〉〈仏懸横木〉などとあり,大繡帳の仏画が寺院壁面に懸けられていたことが明らかである。《西大寺流記資財帳》には懸幅の形状や付属具の記載があり,懸幅装置は鎌倉以降の絵巻にも見られ,かなり後代まで行われていたようであるが,一般には流行しなかった。平安時代に和風建築が浸透し,修法も貴族の邸宅において行われるようになると,修法の本尊として小規模な懸幅が多量に制作されるようになる。一方,《当麻曼荼羅》や〈仏涅槃図〉など集合尊の多い変相系の仏画の画面は横に広がり,鎌倉時代になると何幅かを一組にすることによって,説話内容を表現することが行われた。掛幅形式は,展示,保存,収納などに優れた機能性を有するため,信仰の対象として一般に普及した。
(6)巻子 立体的に懸ける懸幅に対して,平面的において巻きながら見る巻子は,当初はもっぱら経巻に用いられたが,紺紙金泥の装飾経が流行するにつれて,経巻の見返しにも仏画が描かれるようになり,《中尊寺経》《平家納経》,ひいては経典や寺院縁起,仏伝や祖師絵伝などを絵画化する絵巻が現れ,密教の発達に伴い,曼荼羅など各種図像の白描図巻も制作されるようになる。巻子は両手で繰り広げながら見るため,観者の視点は両手で広げた視界内に限定されるだけに,連続する時間経過を追う仏伝図や祖師絵伝,社寺縁起などの仏教説話画には最適であるとともに,保存・収納は懸幅以上に容易であるため盛行した。懸幅や巻子は,中国,チベット,朝鮮,日本に流行し,素材として絹,麻,紙が用いられるが,本格的な仏画には絹が用いられ,画絹の反物を縦に並べて縫いついだ一画面を一鋪(ぽ)といい,横に3反,7反つないだものを三幅一鋪,七幅一鋪などと称する。また絹の刺繡によるものを繡像(繡帳),綴織を織成像(当麻寺《当麻曼荼羅》)という。
(7)仏教版画 中国宋代や,日本の平安後期には,信仰が庶民に広がり,安価に調達できる摺仏(すりぼとけ)(板仏の上からこする)や印仏(捺印する)が普及し,鎌倉時代に流行した。室町時代になり庶民信仰が発達すると,仏画を描く代りに仏教版画が多量に制作され,それに彩色を加えるなど,新時代の要請に応ずることになった。
その他,仏画はまた彫刻像の天蓋,光背,台座にも描かれたり,そのほか幡(ばん)や,牛皮や木造の華鬘(けまん),木造の懸仏(かけぼとけ)や経筒,経箱などの荘厳具,工芸品にも描かれた。
(1)変相図 変相図は変または変相ともいい,広く仏教説話図にあたる。経典に基づくため経変とも称され,つぎのように二大別される。(a)小乗系の説話図 本生図,仏伝図,譬喩(ひゆ)説話(avadāna。仏弟子や在俗信者の過去,現世の優れた行為の物語)の3類があり,インド,西域,中国の壁画に多く描かれる。日本では釈尊の八大事跡を描いた〈釈迦八相図〉,釈迦一代記の〈絵因果経〉〈涅槃図〉〈釈迦金棺出現図〉などがある。(b)大乗経典に基づく説話図 法華経,華厳経,維摩経など多くの経変がある(浄土経変は後述)。経変は中国の敦煌壁画においても,隋~唐に発達し,日本では飛鳥時代の玉虫厨子絵(法隆寺),奈良時代の《法華堂曼荼羅》(ボストン美術館),平安末以降には額絵の《華厳五十五所絵巻》(東大寺)をはじめ,懸幅や絵巻に遺品が多い。
(2)浄土教画 阿弥陀如来を中尊とする浄土の極楽図を描いた浄土変相(浄土曼荼羅)は,中国の敦煌壁画など,隋~唐代に盛んに描かれ,薬師や弥勒などの浄土図も出現する(敦煌莫高窟(ばつこうくつ))。この動きは直ちに日本に反映し,奈良時代には大無量寿経による《阿弥陀浄土図》(法隆寺金堂6号壁)や観無量寿経(観経)による織成の《当麻曼荼羅》が制作され,鎌倉時代には,それを祖型とする縮小型の〈観経曼荼羅〉が多数作られ,〈智光曼荼羅〉〈清海曼荼羅〉などの変形もみられる。《当麻曼荼羅》下縁の九品来迎が平安時代の浄土教の発達に伴い独立した九品来迎図のほかに,《阿弥陀二十五菩薩来迎図》《阿弥陀三尊来迎図》《山越阿弥陀図》が描かれ,鎌倉時代になると,弥勒,十一面,地蔵などの来迎図も現れる。また《二河白道図(にかびやくどうず)》や地獄,餓鬼などの六道絵や十王図が盛行する(浄土教美術)。
(3)顕教画 大乗仏教の発達につれて,大乗経典による変相以外に,多数の如来や菩薩が出現し,薬師,盧舎那仏などの如来,聖観音や千手,如意輪などの変化観音,文殊,普賢,弥勒などの諸菩薩や,梵天,帝釈,四天王などの天部画像も描かれる。
(4)密教画 密教画の主流は曼荼羅である。総合曼荼羅としての胎蔵界,金剛界の両界曼荼羅は重要修法に,両界曼荼羅中の個別の尊像を主尊とする各種の別尊曼荼羅は修法の本尊として用いられる。また別尊曼荼羅の主尊が独立し,修法の本尊として如来,菩薩,明王,天などの各種密教像が作られた。このほか師資相承の伝授のためや,図像収集の目的から,素描風の墨画による白描図像も多く遺存する(密教美術)。一方,密教の本地垂迹説による垂迹画として,〈春日曼荼羅〉〈山王曼荼羅〉〈熊野曼荼羅〉などの垂迹曼荼羅が,鎌倉時代から室町時代にかけて盛行した(垂迹美術)。
(5)仏教人物画 仏画には仏像のほかに,釈迦十大弟子や羅漢画(十六羅漢図など),諸宗の祖師像や高僧像(《真言八祖像》《天台高僧像》など)などの仏教人物画がある。禅宗においては祖師または先師の真容を写した頂相(ちんぞう)が特に重んぜられ,宋代,また鎌倉~室町時代に最も行われた。
→仏教美術 →仏像
執筆者:石田 尚豊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
仏教絵画のことで、広義には仏教の宗教活動のために描かれた仏教を主題にした絵画の総称。狭義には仏教彫像(仏像)に対応する意味に用いられ、礼拝(らいはい)の対象となる仏教の尊像を表した画像をさす。
仏教の絵画活動は、インドの仏教建造物の側壁、天井、龕(がん)、柱などを彩色の絵画や文様により荘厳(しょうごん)することから始まった。仏伝によると、釈尊在世時代に仏画が描かれたように記すものがあるが、これは現在のところ疑問視され、遺品のうえからインドのアジャンタ石窟(せっくつ)のうち初期のものが紀元前1世紀から紀元後1世紀ごろに開かれていることや、その他の資料により、仏画の制作が一般に行われるようになったのは紀元前後と推測される。
仏教が広まった各地方では、インド、チベット、中央アジア、中国、朝鮮、東南アジア、日本など仏教建造物の形式はさまざまであったが、それらを荘厳する風習は受け継がれていった。やがて荘厳のための仏画のほかに、日常礼拝のための本尊や、特別の宗教行事に用いるための尊像を描いたものが各地でつくられるようになり、地域によって特色を備えたものが数多く制作された。さらに密教や浄土教などの教派の登場により、それまでみられなかった教派特有の内容を表した仏画も描かれ、その種類は多種多様となった。
仏画の古い作例は、インドや中央アジアの仏教石窟寺院にみられる。インドのアジャンタ石窟には前1世紀にさかのぼる壁画の一部が保存され(第10窟左側廊)、続く第2期の4~6世紀にわたる仏伝を主題にした壁画は古代仏画の白眉(はくび)と目される。アフガニスタンのバーミアン石窟の天井画や壁画などは5世紀前後ごろとされるが定説をみない。なお、バーミアン石窟の天井画と壁画は2001年タリバン政権により破壊され大部分が失われた。スリランカのシーギリヤの岩壁画(5世紀末ごろ)も仏画とみなされる。中央アジアでは中国甘粛(かんしゅく)省、新疆(しんきょう)ウイグル自治区に残る数々の石窟の壁画が名高い。そのうち敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)の壁画は、北魏(ほくぎ)より元代にわたる各時代の仏画の変遷を伝える貴重な作例であり、キジル石窟、クムトラ石窟、ベゼクリク千仏洞の壁画は西域(せいいき)の独自の仏画の典型をなし、ミーラン遺跡から発掘された壁画の断片にも仏画が多くみられる。このほかチベットやネパールなどにおいてはタンカと称する独特な仏画が制作された。
日本では、白鳳(はくほう)時代から寺院の壁画に仏画が描かれた。法隆寺金堂の壁画はとくに有名で、唐代洛陽(らくよう)をはじめとする大陸の影響を示している。平安時代に入ると密教寺院の一部に受け継がれ、堂塔内部の板絵や、絹地や紙本に描かれるようになり、仏画の制作の隆盛をみるに至り、芸術的にも優れたものがきわめて多く、日本絵画史のなかで大きな比重を占めている。
なお、近代日本における仏画は、後述する伝統的仏画の系統から離れ、多くの日本画家によって、創作的な意図のもとに描かれるのが一般となった。いずれも儀軌の制約に縛られることなく、広く仏教の世界から題材を設定、自由に描かれるようになり、近代絵画としても優れた作品が少なくない。
[永井信一]
伝統的仏画は、内容的には、次のとおりに大別される。
[永井信一]
法会、修法、礼拝の際の本尊として、釈迦(しゃか)、阿弥陀(あみだ)、薬師、観音(かんのん)、普賢、不動といった如来(にょらい)や菩薩(ぼさつ)、明王などを描いたもの。
[永井信一]
経典の内容をわかりやすく絵画にしたもの。経変ともいう。これには、一つの経典に説かれている主旨や重要な場面を一幅あるいは多数の画面にまとめたもの(報恩経変、弥勒(みろく)下生経変、維摩(ゆいま)経変、観経変、法華(ほけ)経変など)、地獄を描いた地獄変、阿弥陀・釈迦・薬師・弥勒など特定の仏の浄土を描いた浄土変相図、また特定の一尊を中心にこれに群像を配したもの(観音変相、不空羂索(ふくうけんじゃく)変相、閻魔(えんま)変相など)などがある。そのほか、釈尊が涅槃(ねはん)に入ったありさまを描く仏(ぶつ)涅槃図は涅槃変相図であり、臨終に際し阿弥陀如来の来迎(らいごう)する光景を描く阿弥陀来迎図は、「観経変」の一部として描かれたのに端を発し、のちに独立したものである。
[永井信一]
密教の世界を構成する諸尊を、一定の規則に従って図式的に配列したもの。真言(しんごん)密教の盛行に伴い、修法の本尊として各種の曼荼羅図がつくられた。諸尊の表し方により、(1)尊形曼荼羅(諸尊の形像を描いて配列したもので、大曼荼羅ともいう)、(2)三昧耶(さんまや)曼荼羅(尊形のかわりに諸尊の持物(じもつ)・印契などだけで表したもの)、(3)種子(しゅじ)曼荼羅(諸尊をそれぞれ固有の梵字(ぼんじ)で象徴するもので、法曼荼羅ともいう)、(4)羯磨(かつま)曼荼羅(諸尊の威儀の姿、所作の働きを示したもの)の4種がある。
また、構成の仕方により、大日(だいにち)如来を中心に諸尊のすべてをもって構成した両界(りょうがい)曼荼羅(金剛界と胎蔵界の2面よりなる)と、特定の修法本尊を中心とする別尊曼荼羅(一字金輪(いちじきんりん)曼荼羅、如意輪(にょいりん)曼荼羅など)の二つに大別される。なお、本地垂迹(ほんじすいじゃく)美術においても、春日(かすが)曼荼羅、熊野曼荼羅以下、種々の曼荼羅とよばれる一連の絵画が描かれているが、これらは密教でいう曼荼羅の拡大解釈による名称の転用にすぎない。
[永井信一]
地獄、餓鬼、畜生、阿修羅(あしゅら)、人、天という、生あるものすべてが輪廻転生(りんねてんしょう)する6種の境界を図絵し、因果応報の理を示す絵画作品。この天の六道に、四聖(声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩、仏)をあわせて十界(じっかい)(十法界)とした十界図もあるが、わが国には遺例は少ない。
[永井信一]
釈尊の前生である本生(ほんしょう)話やその伝記、あるいは宗祖や高僧の伝記、そのほか仏教にまつわる伝説などを図示したもの。羅漢図、禅機図などもこれに含まれる。
そのほか、密教の体系化に伴い、仏像の儀軌を厳格に規定するための、白描画(はくびょうが)風の仏教図像も仏画の研究にとって不可欠な遺品になっている。
[永井信一]
『高崎富士彦著『日本仏教絵画史』(1966・求龍堂)』▽『高田修・柳沢孝一著『原色日本の美術7 仏画』(1970・小学館)』▽『亀田孜著『仏教説話絵の研究』(1979・東京美術)』▽『永井信一・弦田平八郎他編著『明治・大正・昭和の仏画仏像』全3巻(1986~87・小学館)』
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