コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

渡辺秀石 わたなべしゅうせき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

渡辺秀石
わたなべしゅうせき

[生]寛永16(1639).長崎
[没]宝永4(1707).1.16. 長崎
江戸時代中期の長崎派画家。旧姓は岩川,字は元章,号は仁寿斎,嬾道人など。逸然に師事して明の文人画的画法を学び,従前から長崎に伝わる独特の写生技法を加味して花鳥,山水,人物,肖像画などを描き,元禄 10 (1697) 年最初の唐絵目利 (からえめきき) 職についた。同職は世襲制で渡辺家は長崎絵画の正系として重きをなした。長崎派中の漢学派。主要作品『布袋渡水図』 (72,万福寺) ,『隠元像』 (73,神戸市立博物館) ,『唐婦人図』 (長崎市立博物館) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディアの解説

渡辺秀石【わたなべしゅうせき】

江戸前期の画家。長崎の人。字は元章,仁寿斎と号した。黄檗(おうばく)宗の僧逸然〔1601-1668〕に文人画を学び,写生画法を加味して一派を形成。1697年唐絵目利職となり,以後子孫がその職を世襲した。
→関連項目長崎画人伝長崎派

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

渡辺秀石 わたなべ-しゅうせき

1639-1707 江戸時代前期-中期の画家。
寛永16年生まれ。黄檗(おうばく)宗の逸然(いつねん)にまなび,写生の画法をくわえて長崎漢画の一派をたてた。元禄(げんろく)10年長崎奉行近藤五左衛門より唐絵目利(からえめきき)兼御用絵師に任命され,代々この職をついだ。宝永4年1月16日死去。69歳。本姓は岩川。字(あざな)は元章。通称は甚吉。別号に仁寿斎など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典の解説

渡辺秀石

没年:宝永6.1.16(1709.2.25)
生年:寛永18(1641)
江戸前期の画家。通称は甚吉。字は元章。仁寿斎,嬾道人,烟霞などと号する。長崎の商人岩川氏の子として生まれたが,渡辺氏に改めた。絵は逸然に師事。元禄10(1697)年長崎奉行より初代の唐絵目利兼御用絵師に任命された。唐絵目利は中国から舶載された書画の鑑定や評価,図写記録を行う職務で,その制度が整備されたのは秀石の登用に始まる。御用絵師としては唐人屋敷,阿蘭陀屋敷の絵図制作を命じられたと記録されるほか,無署名のものを含め,細密な作風の人物画,花鳥画が数点伝わる。印章のある作品に「双鶴図」(個人蔵)など。伝称作品には「布袋渡水図」(1672,万福寺蔵)など。生没年については,寛永16(1639)年生まれ,宝永4(1707)年1月16日に没したとの説も。

(佐藤康宏)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典内の渡辺秀石の言及

【長崎派】より

…(1)黄檗(おうばく)派は,黄檗宗の中国僧によって伝えられた写実的な高僧肖像画を学び,喜多元規らの肖像画家を生んだ(黄檗美術)。(2)漢画派は,1644年(正保1)に来朝した黄檗僧逸然(1600か01‐68)を祖とし,河村若芝(1629か38‐1707),渡辺秀石(1639‐1707)らが謹厳な北宗画風の絵を描き,秀石は唐絵目利職につくなど,長崎派の主流となった。(3)南蘋(なんぴん)派は,1731年(享保16)に渡来した沈銓(しんせん)(南蘋)にはじまる。…

※「渡辺秀石」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

渡辺秀石の関連キーワード逸然性融熊代熊斐柳沢淇園黄檗美術広渡一湖上杉桂翁黄檗宗熊斐

今日のキーワード

天網恢恢疎にして漏らさず

《「老子」73章から》天の張る網は、広くて一見目が粗いようであるが、悪人を網の目から漏らすことはない。悪事を行えば必ず捕らえられ、天罰をこうむるということ。...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android