隠元隆琦
いんげんりゅうき
Yin-yuan Long-qi
[生]万暦20 (1592).11.4. 福州,福清
[没]寛文13 (1673).4.3. 宇治
中国,明末の僧,日本の黄檗宗の開祖。俗姓は林,諱(いみな)は曾炳,子房と号した。家は貧しく農耕,きこりを業としているうちに若くして母を失った。29歳で地元の黄檗山萬福寺の鑑源興寿について出家,各地を修行行脚ののち臨済宗を学び,萬福寺住職の費隠通容の跡を継いで臨済禅の宣揚に努めた。承応3(1654)年,63歳で長崎の興福寺住持逸然性融の招きにより来朝,初め長崎興福寺,さらに崇福寺を経て,明暦1(1655)年摂津国富田の普門寺に入り,万治1(1658)年には江戸で将軍徳川家綱に謁見した。京都でも後水尾天皇の母,中和門院に仕えた文英尼の帰依を受け,同尼を通じて,天皇はじめ公家の信望を得た。同 2年には後水尾天皇より宇治に地を賜り,家綱の上旨もあって寛文1(1661)年黄檗山萬福寺を創建した。のちに住持の席を木庵性瑫に譲り,晩年を寺内の松隠堂で送った。82歳で示寂。後水尾上皇から大光普照国師の号を賜る。隠元の来日によってさまざまな中国文化が伝えられ,絵画,書,彫刻などの美術は日本に大きな影響を与えた(→黄檗派)。隠元自身も書に優れ,黄檗の三筆の一人とたたえられた。また,インゲンマメ,スイカ,モウソウチク(たけのこ)といった食材,およびそれらを使用した精進料理の普茶料理,木魚などの楽器ももたらされた。著作に『黄檗清規』『黄檗山志』など多数。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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隠元隆琦
いんげんりゅうき
1592.11.4~1673.4.3
中国明代の禅僧。日本黄檗(おうばく)宗の開祖。中国福建省出身。29歳で出家し,諸方遍歴ののち,福州黄檗山万福寺(古黄檗)の費隠通容(ひいんつうよう)の法をついで山主となる。長崎興福寺の逸然性融(いつねんしょうゆう)らの懇請をうけ,1654年(承応3)来日。58年(万治元)将軍徳川家綱に謁し,幕府から山城国宇治に寺地を与えられ,61年(寛文元)万福寺を創建して日本黄檗宗を開いた。嗣法の弟子は日本僧3人を含む23人。著述に「黄檗語録」「普照国師広録」などがあり,日本で数多く開版された。歴代天皇から,大光普照・仏慈広鑑・径山首出・覚性円明の各国師号と真空の大師号を贈られる。弟子の木庵性瑫(もくあんしょうとう)・即非如一(そくひにょいち)とともに黄檗三筆とよばれた。隠元豆は隠元が明から移植したものという。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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隠元隆琦 いんげん-りゅうき
1592-1673 明(みん)(中国)の僧。
万暦20年11月4日生まれ。日本黄檗(おうばく)宗の祖。承応(じょうおう)3年逸然性融(いつねん-しょうゆう)らの招きで来日。山城(京都府)宇治に土地をあたえられ,万福寺をひらく。建築,書画,詩文,料理などに明の文化をもたらした。寛文13年4月3日死去。82歳。福建省出身。号は大光普照国師。諡号(しごう)は仏慈広鑑国師など。語録に「隠元禅師語録」,著作に「黄檗清規」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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隠元隆琦
いんげんりゅうき
1592〜1673
江戸前期に来日した明の禅僧。日本の黄檗宗 (おうばくしゆう) の開祖
隆琦は諱 (いみな) 。明の福建の人。黄檗山鑑源につき法嗣となった。1654年長崎興福寺の逸然の招きで来日, 黄檗宗を伝えた。公家や武家の崇敬をうけ,'58年将軍徳川家綱から山城宇治の地を与えられ,'61年万福寺を建てた。主著に『黄檗山志』。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の隠元隆琦の言及
【禅宗美術】より
…江戸時代初期に渡来した黄檗(おうばく)宗も臨済宗の一派であるが,ラマ教などの影響が顕著で,宇治の万福寺天王殿にみられる濃厚華麗な造形感覚を特色とする。隠元隆琦(りゆうき),木庵性瑫(しようとう)(1611‐68)の画像と書画は従来の日本禅宗美術に比していっそう大陸的で,近世美術の展開に及ぼした影響は大きい([黄檗美術])。[禅画][墨跡]【衛藤 駿】。…
※「隠元隆琦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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