日本歴史地名大系 「道下村」の解説 道下村とうげむら 石川県:鳳至郡門前町道下村[現在地名]門前町道下・大生(おはい)勝田(かつた)村の南西、八(はつ)ヶ川河口に開けた平地と後背丘陵に立地。外浦街道に沿い、また総持寺への参詣往来筋でもあり、奥能登の宿駅の一つ。中世には櫛比(くしひ)庄の内。当村を含め八ヶ川流域諸村を「櫛比八ケ内」と称した。行基開創と伝える鉄川(かなかわ)宮(現諸岡比古神社)があり、別当寺の鉄川寺とその門中寺の善光(ぜんこう)寺・宝泉(ほうせん)寺などがあった。現在善光寺の地名が残る。「長家譜」に南北朝期の範信について「櫛比庄川尻之地頭」とみえ、当地を川尻(かわしり)と称したとの説がある。貞治二年(一三六三)一一月一五日の長谷部範信譲状案(総持寺文書)では、川尻の田畑を甥「十郎ひでつら」に譲与している。 道下村どうしたむら 栃木県:塩谷郡塩谷町道下村[現在地名]塩谷町道下原荻野目(はらおぎのめ)村の北、荒(あら)川右岸に位置し、中央部を高野(こうや)堀が南流する。堂下村とも記される。宇都宮氏旧臣姓名書に道下村の柿沼姓三名、会曾川姓・青木姓・田代姓・石下姓・沼尾姓各一名がみえる。元和六年(一六二〇)の年貢割付状(青木正巳文書)によると高五七五石余、田方三一二石余・畠方二六三石余、年貢のほかに茶銭二〇〇文・かち炭一九俵を納める。同年の検地帳四冊のうち三冊が残る(柿沼武夫文書)。三冊分によると田二五町六反余・畑三九町六反余、上田・上畑が多い。 道下村どうげむら 富山県:下新川郡朝日町道下村[現在地名]朝日町道下北は沼保(ぬまのほ)村・荒川新(あらかわしん)村、東は横尾(よこお)村・南保(なんぼ)村、西は平柳(ひらやなぎ)村、南は二(ふた)ッ村。現朝日町役場所在地。正保郷帳では高四一八石余、田方二五町九反余・畑方二町、新田高四一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高四八九石、免五ツ、小物成は野役五一匁(三箇国高物成帳)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by