塩谷町(読み)しおやまち

日本歴史地名大系 「塩谷町」の解説

塩谷町
しおやまち

[現在地名]神林村塩谷

あら川河口右岸にあり、西は日本海に面する。南西荒川対岸は桃崎浜ももざきはま(現北蒲原郡中条町)海老江えびえ(現荒川町)。集落はかつて現在地より五〇〇メートルほど内陸寄りの字古屋敷ふるやしきにあったとみられる。字宮町みやまちにある塩竈しおがま神社の縁起(同社蔵)などからは享保一六年(一七三一)頃海岸寄りの現在地に移転したものと考えられる。建長七年(一二五五)一〇月二四日の関東下知状案(米沢市立図書館所蔵色部氏文書)によれば、同五年頃荒河あらかわ保地頭荒河景秀の代官が塩屋を建て、小泉こいずみ牛屋うしや条地頭の色部公長方がこれを破壊したことがみえる。この塩屋が建てられた場所が当地と考えられている。天正―慶長(一五七三―一六一五)頃の色部氏年中行事(色部文書)末尾の永禄八年(一五六五)一一月一二日の色部氏代官長谷部新兵衛のおぼえ日記に「同廿文 しを屋のさかな持ニ」とある。文禄三年(一五九四)の色部氏差出(斎藤実寿氏蔵)には「肴役有 塩屋村」と記される。文禄頃の瀬波郡絵図には「色部分塩や村 中」とみえ、本納八石・縄高六一石七斗九升七合、家一八軒とある。家は砂防の垣根に囲まれており、荒川対岸桃崎浜村との間に渡船が描かれる。また東方内陸には潟湖が広がっている。

近世は村上藩領。正保国絵図では高一四〇石余。延享三年(一七四六)の町明細帳(板垣総兵衛氏蔵)によれば本畑六六石三斗余・新畑七石九斗余・酉亥両年新畑一二石余・享保丑卯新田二三石余・享保丙午新田六石六斗余、家数六六(うち百姓五九・相家四・庄屋一・組頭二)・人数三〇四。


塩谷町
しおやまち

面積:一七四・六四平方キロ

塩谷郡の中央に位置し、東は矢板市、西は藤原ふじはら町、南は今市市・河内かわち上河内かみかわち村および氏家うじいえ町、北は那須郡塩原しおばら町。南境を鬼怒川が東流し、東部をあら川が南東流する。北部に高原山系釈迦しやかヶ岳(一七九四・九メートル)がそびえ、両川流域を除く町域の大半は標高三〇〇―四〇〇メートル以上の高地をなす。集落も両川流域と日光北街道沿いに開ける。町域内に先土器遺跡四ヵ所のほか縄文時代の遺跡は多数残るが、弥生時代の遺跡は一ヵ所が確認されているのみである。


塩谷町
しおやまち

[現在地名]川之江市川之江町

川之江村の東部にあり、金比羅道沿いに新町下しんまちしも農人のうにん町に続く街村。塩屋町とも書く。元禄八年亥八月覚留帳(住友修史室蔵)に「山廻リ伊平川ノ江塩やノ者」とあるのが初見。元禄一四年(一七〇一)の川之江村明細帳などでは、枝郷塩屋(塩谷)本村より一町としているが、享保六年(一七二一)の川之江村明細帳では「塩屋町一町三間」と町方にも記している。文久三年(一八六三)の「役用記」によれば、家数五七軒、人口二六二人。

元禄一四年の川之江村明細帳に「銀五拾匁定納塩竈役 銀百八拾七匁六分定納塩年貢是ハ塩六拾七俵代」とあり、塩屋の由来といわれ、集落南の畠山はたけやま塩竈しおがま神社がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「塩谷町」の意味・わかりやすい解説

塩谷〔町〕
しおや

栃木県中部,高原山の南斜面にある町。 1957年大宮,玉生 (たまにゅう) ,船生 (ふにゅう) の3村が合体して塩谷村となり,65年町制。鬼怒川と那珂川支流の荒川沿岸に低地があるが,大部分は山地,丘陵地である。中心地区の玉生は江戸時代,日光北街道の宿場町として発展。周辺は農林業が盛んで,米,木材を産する。佐貫石仏は史跡。町域の一部は日光国立公園に属する。面積 176.06km2。人口 1万354(2020)。

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