那古野城(読み)なごやじょう

日本の城がわかる事典 「那古野城」の解説

なごやじょう【那古野城】

愛知県名古屋市中区にあった戦国時代の平城(ひらじろ)。織田信長の一時期の居城で、今日の名古屋城の地に築かれていた城である。1518年(永正15)以降、しばらくの間、駿河の今川氏は三河国の全域と尾張国の東半分をその支配下においていた。大永年間(1521~28年)に今川氏親が今川氏の最前線の拠点として築いた城が那古野城の起源とされる。氏親は一族の今川氏豊を入城させ、その任に当たらせた。勝幡城(稲沢市)の織田信秀(織田信長の父)は1532年(天文1)、氏豊を滅ぼして城を攻略、勝幡城から居城を移した。那古野城という名称は、このときの信秀の命名ともいわれる。信秀の嫡子信長は、この城で生まれたとも、勝幡城で誕生したともいわれる。また、信秀は幼い信長に那古野城を譲り、自らは古渡城(ふるわたりじょう)(名古屋市中区)を築いて移り住んだ。信秀の死により家督を継いだ信長は1555年(弘治1)、主家の尾張半国守護代の織田信友を滅ぼし、居城を清洲城(清須市)に移した。その後、信長の叔父織田信光や重臣林秀貞らが一時期、那古野城の城主を務めたが、やがて廃城になった。1609年(慶長14)、徳川家康はかつての那古野城の跡地に名古屋城の築城を決めたが、このころ那古野城跡鷹狩に使われるような原野になっていたという。那古野城は、名古屋城の二の丸(柳の丸)付近にあったとされているが、その部分も近世城郭の名古屋城の郭内に取り込まれたために、那古野城の遺構はほとんど残っていない。現在、二の丸跡に那古野城址の碑が建っている。最近の発掘調査により、名古屋城の三の丸跡も旧那古野城の城域であったという推定もなされている。名古屋市営地下鉄名城線市役所駅から徒歩約5分、または同鶴舞線浅間町駅から徒歩約15分、または名鉄瀬戸線東大手駅から徒歩約15分。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の那古野城の言及

【名古屋城】より

…名古屋市中区に所在。1521年(大永1)今川氏豊が現名古屋城二の丸付近に城を築き,那古野(なごや)城と呼ばれ,その後,織田信秀・信長の居城となったが,信長が尾張支配の拠点を清須(清洲)城に移すに及んで,一時廃城となった。関ヶ原の戦後,徳川家康は福島正則を改易し,尾張に第4子松平忠吉を封じたが,1607年(慶長12)忠吉は急逝,かわって第9子徳川義直をその後継とした。…

※「那古野城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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