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戦国期~江戸初期の城。愛知県清須(きよす)市清洲にあった。清須城とも書かれる。城が初めて築かれたのは1405年(応永12)といわれ、尾張(おわり)国守護斯波(しば)氏が、尾張の中心であり交通上の要衝でもあるこの地を選んだものである。1554年(天文23)斯波義統(よしむね)・義銀(よしかね)父子が守護代織田信友(のぶとも)に城を追われ、さらに翌年織田信長が信友を攻め清洲城に入った。以来10年間、1563年(永禄6)に城を小牧山(こまきやま)に移すまで信長の本城であった。82年(天正10)信長が本能寺(ほんのうじ)で死んだあと、ここで清洲会議が開かれ、信長の二男信雄(のぶかつ)が入った。信雄のときに城が拡張され、その後羽柴秀次(はしばひでつぐ)、さらに福島正則(まさのり)、徳川家康の子忠吉(ただよし)・義直(よしなお)が入ったが、名古屋に新城築城ののち廃城となった。
[小和田哲男]
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…1418年(応永25)歌僧正徹の旅行記には清須に尾張守護の居館のあったことが記されている。城館は78年(文明10)ころ守護代織田敏定が守護所を下津(おりつ)から清須に移したのに始まり,85年には清洲城と呼ばれている。83年に守護斯波義良が迎えられて以後義達,義統と続いたが,1553年(天文22)義統は守護代織田信友に殺され,その子義銀が織田信長に援を求めたので,55年(弘治1)信長は信友を討って清須城に入った。…
※「清洲城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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