日本歴史地名大系 「都萬神社」の解説
都萬神社
つまじんじや
〔古代・中世〕
草創の経緯は不詳であるが、「続日本後紀」承和四年(八三七)八月一日条に「子湯郡妻神」とみえ、同じ
妻万宮縁起(郡司信介家文書)などによれば五社明神ともいうのは妻万社を筆頭に平郡社・臼杵高知尾社・櫛間社・江田社の五社を祀ることに由来するという説や妻万の本地が「妻 尺迦鹿嶋」「妻 観音伊勢」「平郡矢久渡 薬師春日」「鹿那田潮霧島 地蔵平岡」「文殊三輪 三才若宮」であるからという説があり、平安後期から中世においては日向国の有力な神社を合祀していたとみられる。当社は国府域の中にある神社で、神職は平安時代から日向国衙の在庁職を独占してきた日下部氏が勤め、惣社的な機能をもっていたとみられる。建久図田帳では「妻万宮領九十八丁」とみえ、その後に「清水社六十丁」「江田社三十丁」「高知尾社八丁」と記される。この図田帳の記載の解釈は難しいが、縁起にある五社明神としての性格と関係しているとも解釈できる。
都萬神社
つまじんじや
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報