酵素工業(読み)こうそこうぎょう

改訂新版 世界大百科事典 「酵素工業」の意味・わかりやすい解説

酵素工業 (こうそこうぎょう)

酵素は古来醸造食品の製造において,一部の工程を遂行するために利用されてきた。現在でもビールの醸造でデンプンの糖化に麦芽アミラーゼが,またチーズの製造に際し乳タンパク質の凝固に子牛の胃液から作られたレンニンが使用されているが,これらがいつごろから始まったかは定かでなく,あるものは有史以前にさかのぼることができると考えられる。しかし,酵素の利用が醸造工業の補助的役割を脱し,独立した技術として認められるようになったのは20世紀中ごろ以降のことである。これは,酵素の研究がそのころから急速に進展し,とりわけ酵素の精製技術の進歩に支えられて,数多くの酵素が純粋な状態に単離され,その作用の詳細が明らかにされたため,その知見に基づいて次々と新しい酵素の利用が考案されたことによる。

 酵素を用いることの利点は,酵素が生物体によって作られ,生物が行うさまざまの化学反応を触媒する物質であるということに依存している。すなわち,酵素は生物が生存できるような温和な条件のもとで最も効率よく反応し,また複雑な生体成分の特定の物質のみを認識して反応する(これを基質特異性という)が,これは通常の触媒による化学反応にくらべて著しい特徴である。温和な条件における反応は原料の不必要な変性を伴わないし,厳密な基質特異性は複雑な成分系の中で目的とする反応のみを正確に実現することができ,現代の工業が指向する省資源・省エネルギー的生産手段といえるのである。このため酵素の応用は,比較的不安定な原料を用いる食品加工や,高純度の製品が求められる医薬品の製造において多用されてきた。酵素利用の有利性が認識されるにつれて,使用する酵素剤の開発が進み,ここ20年の間におびただしい種類の酵素剤が開発され,またそれらの積極的な利用の研究によって,新しい酵素の用途がひらかれてきた。初期の酵素剤は麦芽やレンニンのように,動植物の組織や分泌物から調製されていた。現在でもブタなどの膵臓の粉末は消化剤として,またパパイアの樹液(パパイン)やパイナップル果実ブロメライン)からはプロテアーゼ剤が作られている。しかし20世紀の初めに高峰譲吉がこうじ菌からタカジアスターゼの製造を実施したこと,また1940年代に枯草菌からα-アミラーゼの製造法が確立されるに及び,酵素の資源が微生物に求められるようになってきた。これは,微生物の種類がきわめて多く,適当な微生物を選べば,利用目的に適する酵素を容易に得られることや,微生物が旺盛な繁殖力と高い酵素生産性をもつため,酵素の経済的な製造が達成されるなどの利点によるものである。現在工業的に製造されている酵素の過半数はすでに微生物起源のものである。レンニンのような酵素でさえも,微生物起源のものに置き換えられつつある。

 現在酵素が最も多く利用されているのは,醸造工業・食品加工の分野であるが,加工される原料がデンプン・タンパク質・脂肪を多く含む関係上,利用される酵素にはアミラーゼ,プロテアーゼ,リパーゼなどの加水分解酵素が多い。中でもアミラーゼは最も古くから利用されていて,広い用途をもっている。さらに近年ではアミラーゼからブドウ糖,マルトースの製造が世界的に行われるようになって,その使用量は群を抜いて多く,生産量も全酵素生産量の80%以上を占めている。食品加工に次ぐ酵素の利用は医療や医薬品の製造で,古くから膵臓の粉末やタカジアスターゼが消化剤として用いられてきたが,高純度の酵素製剤が得られるようになって,直接局所に投与できる消炎剤や抗血栓剤など,いくつかの酵素製剤が開発されてきた。また医療に関連する分野として,血液や尿などに含まれる成分量を,それぞれに対応する酵素で測定する臨床分析法が発達し,疾病の診断が迅速かつ正確に行えるようになってきた。さらに医薬品をはじめとする化学工業におけるファイン・ケミカルの製造手段として,酵素の利用が広くとり上げられ,その製品には合成ペニシリン,ステロイドホルモン,アミノ酸,核酸など枚挙にいとまがない。そしてこれらの製造には加水分解酵素以外に,酸化還元,異性化,転移などの反応に関与する酵素が多用されている。このように多方面に酵素の利用が展開してきた要因の一つに,最近の固定化酵素の技術開発を挙げねばならない。これは,酵素をある種の担体に吸着または結合させたり,特殊なゲルやマイクロカプセルの中に封入して不溶化したものを,例えばカラムに充てんし,その中を基質溶液を通過させて,反応を行わせる方法で,従来のバッチ式による酵素の使用法にくらべて,酵素を繰り返し使用できるために経済性が飛躍的に向上した。また,いくつかの酵素のカラムを連結して,生体内におけると同様の複雑な反応を行わせることも可能となってきた。酵素の利用はこれからも新しい酵素の開発とその利用技術の開拓によって,ますます拡大し化学工業における製造手段としての重要性を高めていくものと考えられる。また,微生物は遺伝子操作の応用によって,けた違いに高い酵素の生産力をもつものや,他の生物由来の酵素を生産するような変異株が自在に得られるようになり,酵素資源としての地位をますます高めていくと思われる。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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