資源とは何かについては、広狭さまざまな定義がなされており、かならずしも共通の見解が確立しているとはいえない状況下にある。科学技術庁資源調査会(現文部科学省科学技術・学術審議会資源調査分科会)は、「資源とは、人間が社会生活を維持向上させる源泉として、働きかける対象となりうる事物である」と定義し、さらに「資源は物質あるいは有形なものに限らない。まして、天然資源のみが資源なのではない。それは、潜在的な可能性をもち、働きかけの方法によって増大するし、減少もする流動的な内容をもっている。欲望や目的によっても変化するものである」としている(『将来の資源問題(上)』55~57ページ・1972年・大蔵省印刷局)。
この最広義の定義に即して、次のような分類がなされている。
〔1〕潜在資源 (1)気候的条件――降水、光、温度、風、潮流、(2)地理的条件――地質、地勢、位置、陸水、海水、(3)人間的条件――人口の分布と構成、活力、再生産力
〔2〕顕在資源 (1)天然資源――生物資源と無生物資源、(2)文化的資源――資本、技術、技能、制度、組織、(3)人的資源(人間資源)――労働力、志気
しかし、通常の場合は、もっと狭義に、顕在資源のうちの天然資源に限定して、資源を定義している。だが、石油、鉄、米、魚といった具体的な天然資源ないし天然資源生産物よりも、それらを生み出す油田、鉱山、水田、漁場のほうを重要視すべきであるという意見も、根強く存在している。
さらに、天然資源は、多種多様な個々の資源を総括した名称である。具体的には、土地資源、水資源、森林資源、食糧資源、鉱工業資源(金属資源〈鉄と非鉄、ないしベースメタル=基礎金属とレアメタル=希少金属〉、非金属資源、高分子資源〈繊維、紙・パルプ、ゴム、プラスチック等〉)、エネルギー資源、海洋資源、観光資源等の資源グループに分類されている。
また通常は、この天然資源を、更新ないし再生産が可能かどうか、いいかえれば枯渇性資源か否かによって、大きく二分しているが、どれだけの時間的長さで考えるかが問題で、超長期にみれば、枯渇性資源の代表的事例である石油等の化石燃料でさえも、更新可能資源とみなすことができるであろう。ここでは、資源を天然資源に限定して論議を進める。
[深海博明]
時代の大きな流れとともに、重点が置かれる資源も変化してきている。それぞれの時代において、その主たる担い手や中心をなす産業で必要な資源が、もっぱら重視されている。
かつての農業が中心であった時代には、資源といえば主として土地と水であり、これらの獲得をめぐって血みどろの争いが繰り返されてきた。近代ないし現代では、工業化社会を反映して、資源といえば工業原燃料に関心が集中してきた。
それでは、今後はどんな資源がもっとも重要となるのであろうか。いったいどんな経済社会が到来し、その担い手となる産業は何なのであろうか。一般には、高度知識情報社会ないし脱工業化社会が出現するといわれており、同時に高齢化社会の到来も必至であろう。もちろん、これまでと同様に、人間が生き、快適な生活を送るためには、食糧や工業原燃料は不可欠ではあるが、未来社会を担い中心となるのは、どんな産業部門なのだろうか。そしてこの産業部門で主として必要とされる資源は何なのかを、突っ込んで考究していくことが、今後の展望のためには不可欠であろう。
具体的に、「近年、経済社会の急激な情報化の進展、宇宙・海洋といった新領域の拡大のなかで、各産業分野で活発な研究開発が行われているが、素材分野においても、これまでの素材にはない高度な機能を有する新素材に対するニーズが高まっており、研究開発も活発に進められている。とくに、新金属材料については、従来の構造材的側面に加え、超電導特性、半導体特性、磁気特性、核特性等の機能材的側面に、ニーズが拡大してきている。このような新素材の高度な機能を生み出すために必要不可欠な資源がレアメタルであり、超LSI、リニアモーターカー、核融合炉、超高性能磁石、レーザー発光素子等の先端技術材料用として、ガリウム、ニオブ、レア・アース等のレアメタルが新たに用いられ始めている」(鉱業審議会鉱山部会レアメタル総合対策特別小委員会『レアメタル総合対策について――技術革新、産業活性化、経済安全保障を目指して』1984年12月10日)のように、レアメタルが注目されるようになっている。
[深海博明]
一般には、世界や日本の人々の生活や正常な経済活動を維持し、さらにその向上や発展のために必要とされる資源を、いかに効率的に(安価に多量に)確保するのかが、主たる問題の所在や内容であると考えられてきている。これは、資源問題の重大な一面であるが、同時に問題を矮小(わいしょう)化させ、公害・環境問題や資源枯渇問題を発生・深刻化させる一因となっていると思われる。
もっとも単純化してみれば、資源問題の本質とは、主体である人間と客体である自然・環境との相互作用・相互関連といえるであろう。人間の自然への働きかけと、自然の人間ないし人間社会への反作用という二つの面があり、一方的働きかけではなく、相互作用がなされていることが重要である。
これまでは、人間の自然への働きかけの面、とりわけ自然からの資源の効率的な採取・開発・獲得・利用のみに集中し、自然の人間への反作用の側面ないし人間と自然との調和・バランスを軽視し続けてきた。とくに第二次世界大戦後、世界全体と日本の急速な経済発展が持続し、人間の自然への働きかけ、具体的には、資源の開発・消費さらに廃棄が急増し、自然がもつ人間の働きかけを同化・吸収・処理する能力を超え、深刻な反作用を人間に及ぼすようになった。これらの資源枯渇問題や環境資質悪化の問題・公害問題は、狭い意味での資源問題の結果・裏面にほかならず、これらの全体を資源問題の真の所在として把握し、対応していかねばならなくなっている。
[深海博明]
したがって、資源問題の基本的課題は、人間が自然との調和・バランスを図り、これをうまく活用することによって、人間が快適に真の生きがいを感じながら、しかも未来永遠にわたって生存していける条件をつくりあげることであろう。人間を尊重し、本当の人間福祉を重視し、現世代だけではなくて長期的な未来世代をも考慮しながら、資源問題の解決を大きく目ざしていかねばならない。
さらにこうした本質理解によって、次の二つの資源問題の基本的決定因もまた明らかとなろう。第一は、人間の自然・環境への働きかけの全体としての量や規模ないし時間にわたる増加率であり、第二は、人間の自然に対する働きかけの仕方・方法であり、これは総括して、技術体系・技術要因であるといえよう。
具体的に説明すれば、第一の決定因は、人口規模とその生活水準・所得水準とを掛け合わせたものと、それぞれの増加・上昇率にほかならない。世界全体ないし各国の適正な人口規模なり可能な人口増加率やそれらの上限はどれだけなのか、また生活水準や所得水準の限界はどこにあり、許容できる上昇率はどれだけなのか、国際間における格差是正はどの程度なされるべきなのかなどが、その基本的決定因である。第二の決定因である技術体系・技術要因は、人間と自然・環境とのかかわり合い、相互作用を左右するものであり、資源の供給は、生産技術と資源管理能力の関数であるともいえるであろう。資源の利用可能量や価値は、科学や技術の水準やその向上・革新に主として依存している。
しかも最近、従来の技術体系の目標やあり方自体に関して、問い直しや反省がなされている。これまでは、人間の自然に対する一方的働きかけ、すなわち、いかに多量かつ安価に資源の採取・開発・利用を行うかに重点が置かれてきたが、その結果、公害・環境問題が深刻化し、人間の生存そのものが脅かされるようになっている。それゆえに、技術体系のあり方が根本的に再検討され、生態学的な自然循環や物質循環を尊重し、積極的に公害や環境汚染を防除し、廃棄物や汚染源因子の処理・再生を図り、新たに再資源化していく再循環(リサイクリング)経済への転換が、重視されるようになっている。
さらに、これらの決定因の根底には、人間の価値観や基本目標が大きく作用している。資源は安価に多量に存在することを前提とする、使い捨ては美徳であり、高度成長こそ至上であるといった従来の価値観や目標を問い直し、資源は有限で希少であることを基本前提として、節約・有効利用こそ美徳であり、人間の真の生きがいや福祉を尊重する価値観や目標への転換が、まずなされていくべきであろう。
[深海博明]
世界の資源問題の大きな展開過程を、この二つの基本的決定因との関連で簡単に整理してみれば、次の三つの時期に区分することが可能であろう。
第1期は、人類の誕生以来、産業革命に至る非常に長い期間である。世界の人口規模や生活水準の急増が生じたのは、産業革命以後であり、それ以前においては、土地に代表される資源の希少性が、成長・発展への基本的制約要因として働いており、人間の生存維持のための資源獲得が基本問題となっていた。人間はむしろ受動的に自然に反応し、生活水準の向上や人口増加には一定の限界が存在し、成長・発展は長期的には持続できないと考えられてきた。
第2期は、産業革命以来1960年代末に至る期間である。欧米先進国では、自己維持的な経済成長が定着し、天然資源の絶対的かつ特定の希少性は打破できると考えられ、技術革新が重視され、また資本や人的資源が注目を集め、資源制約は軽視されてきた。
さらにこの期間を、第二次世界大戦以前と以後とに区分する必要があろう。第二次大戦以前は、とくに1870年代以降、欧・米・日の諸列強の間で、天然資源は国力・軍事力を象徴すると考えられ、「領土を得ずんば資源を得ず」として、熾烈(しれつ)な植民地・資源の獲得抗争が展開されていった。第一次・第二次の両世界大戦も、植民地を含めてみた資源をもてる国々havesと、もたざる国々have-notsとの対立・抗争に帰することができるであろう。
第二次大戦後は、まさに劇的な国際資源情勢の変化が生じた。1960年代末近くまでは、国際平和・国際協力の下に、自由貿易による低廉・良質の資源の輸入・確保が世界的に可能となり、資源制約を深刻に考慮することもなく、世界経済は年率5%もの未曽有(みぞう)の高度成長を謳歌(おうか)してきた。
第3期は、1970年代に入って、改めて資源問題・資源制約を中心とする人類の危機・成長の限界が大きく取りざたされ、現実にも、食糧危機や第一次・第二次の石油危機が発生し、資源問題が正面切って取り上げられ、真剣な論議が行われるようになった時期である。しかも、70年代の価格高騰・危機の時代を経て、80年代に入っての現段階は、一見すると、価格低迷・供給過剰の時代を迎えたのではないかと思わせる状況も生じており、まさに、資源問題を筋を通して本質的に、かつ短・中・長期的に問い直し、新たな対応を行うべき重大な転換期にあるといえるであろう。
[深海博明]
資源の開発・利用の歴史を大きく整理してみれば、まず、人間と自然との基本的なかかわり合いのあり方が主たる決定因となってきた。産業革命は、人間が自然に受動的に対応してきた従来のかかわり方から、自然に能動的・積極的に働きかけ、自然をむしろ改変し、大量の資源の開発・利用が可能となるかかわり方への転換を明示するものであった。
人類のユニークな点は、道具や機械をつくり、それを利用してきたことである。旧石器、新石器、青銅器、鉄器時代と区分されているように、人類は新しい資源を開発・利用し、生活水準の向上に努めてきた。しかし、急激な人口増加と生活水準・所得水準の著しい上昇が生じたのは、産業革命以降であった。
ここでエネルギー資源を取り上げてみれば、利用技術では、人力・畜力・水力や薪炭を利用していた道具の時代から、蒸気原動機や内燃機関を利用する機械の時代へ転換し、石炭・石油等の化石燃料が使用されるようになり、さらに電動機・原子力機関等が利用されている。またエネルギー消費量の増大の推移をみれば、その急激な増大や消費の用途面での変化が生じたのは、主として産業革命以降であった。現在のわれわれの生活は、まさに膨大なエネルギーやその他資源の利用・消費によって成り立っているといえるであろう。
[深海博明]
まず第一の特徴として、地球資源の賦存および生産の偏在性が著しい。資源は地球全体に広く平均的に存在しているのではなくて、ある特定の地域・国にランダムに偏在している。
世界には現在191もの国があり、国の数のみならず、その面積等を考慮しなければならないが、資源保有上位5か国で、世界の確認埋蔵量(現在の価格と技術を前提として、経済的に引き合って採取可能であると確認されている埋蔵量)全体の5、6割から8割を占めているのが通例であり、生産上位5か国についてもほぼ同様である。
第二の特徴は、ごく概略的にみて、世界には、資源をもてる国ともたざる国とが併存しているが、しかし、もっとももてる国といえども、すべての資源に恵まれて、完全に自給自足が可能とはいえない事実である。
世界を、東側の社会主義圏と西側の資本主義圏とに二分し、さらに西側を北の先進国と南の開発途上国とに区分してみると、それぞれの地域にもてる国ともたざる国とが併存している。南側のなかにも、もたざる国々が数多く存在しており、もっとも深刻な状況の国々も多く、東側では、旧ソ連が世界資源最富有国であるといわれていたが、食糧等では西側からの輸入に依存していた。また石油と一部鉱物資源を除くと、北側先進国のなかのもてる国々が、資源の供給・輸出国として実はもっとも重要であり、アメリカは旧ソ連と並ぶ資源豊富国であるが、消費が供給を上回り、全体としては輸入国となっている事実が注目に値する。
第三の特徴は、世界の資源の需要・消費もまた偏在しており、しかも資源賦存に恵まれない日本や西欧の先進国が、アメリカ・旧ソ連・中国とともに、主要消費国となっている事実である。
このように、資源の賦存・生産と関連せずに、もたざる日本や西欧の先進国が多量の資源を消費できるのは、その需給の過不足を埋め合わせるように、世界的に資源貿易が円滑に行われ、必要な資源の輸入・確保が可能であるからである。したがって資源貿易は、決定的な重要性をもっているといえるであろう。
第四の特徴は、多くの主要な資源の場合、欧米先進国を母国とする巨大な国際資源企業ないし国際大資本が介在しており、資源保有国にかわって、資源の開発・生産・加工・輸送・販売等の担い手となってきた事実である。
従来、国際大資本は、圧倒的な支配力を行使し、独占的に行動してきた。具体的に、石油の場合、メジャーズとよばれる七大資本(エクソン、テキサコ、シェブロン、モービル、ガルフ、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアム〈BP〉の七つで、セブン・シスターズという。なおフランス石油〈CFP〉を含めてエイト・ブラザーズともいう)が著名であり、非鉄金属や穀物取引においても、少数の国際大資本が圧倒的な優位にたっていた。
しかし、南の開発途上国を中心とする資源保有国側は、政治的独立を経済的独立によって裏づけ、国際大資本の手中から資源を取り戻し、資源保有国だけがその資源の開発・利用・処分等のいっさいに関する侵すべからざる権利をもつという「天然資源に対する恒久主権」の完全な確保・行使を志向して、資源ナショナリズムを高揚させ、国際大資本への挑戦を1960年代後半以降大胆に展開してきた。その結果、国際大資本も大きく揺らぎ、石油の場合、1984年にガルフがシェブロンに買収されるなど再編成が進み、資源保有国側の地位・シェアが向上しているが、国際大資本のもつ技術力・経営力・資本力・販売力・輸送力等はなお侮りがたい。
[深海博明]
1970年代に入ると、ローマ・クラブの一研究である『成長の限界』が発表され、資源の枯渇、人類の危機が差し迫っているという警告がなされ、現実にも、食糧危機および二度の石油危機が発生した。いったい資源枯渇がどれだけ差し迫り、人類は資源制約によって、危機や限界に到達しつつあるのかどうかについて、基本的な判断や評価を明確化することが最重要課題であろう。
まずは、宇宙船地球号である以上、地球の資源量は有限であり、第二次大戦後の高度成長期のごとく、今後も資源消費を急増させ続けていけば、やがてはその枯渇は差し迫った問題とならざるをえないことは明白である。
しかし、人類が、高度成長が常態であり、永遠に持続するといった考え方、および使い捨て・浪費は美徳であるといった価値観や生活態度を根本的に再検討し、地球資源は有限であることを前提に、資源の節約・有効利用こそを美徳として、自然との調和・バランスに努め、真の生きがいなり福祉を追求していくならば、地球資源の物理的な枯渇は差し迫った問題ではなくなり、地球資源余力は今後もなお十分に存在すると、以下の理由から、結論を下せるであろう。
第一に、通常の論議の対象となる資源埋蔵量は確認埋蔵量であり、すでに明示したように、それは、現在の技術と価格とを所与として、経済的に引き合って採取可能な資源量にすぎない。再生産不可能な鉱物資源の場合、地球の物理的全資源量と比べて、確認埋蔵量は、何百万分の1から何十億分の1といったオーダーの量にすぎず、今後の技術革新や価格の上昇によって、膨大な埋蔵量の追加が生ずる可能性が大である。
第二に、物理的に膨大な地球の資源余力が存在しているにもかかわらず、確認埋蔵量、さらにそれを現在の年間の生産量や消費量で割った可採年数や耐用年数が、一定の値(30年~50、60年程度)にとどまっているのは、それらの資源開発の担い手がおもに民間企業であり、経営上、一定の埋蔵量をもっていれば十分だからである。これまで、可採年数が大幅に減少した場合、探鉱投資・技術開発等がなされて、可採年数は元の水準に回復してきている。
第三に、エネルギー、なかでも石油等の化石燃料に関しては、資源枯渇が深刻に懸念されている。しかし、もっとも枯渇が差し迫っているといわれる石油をみても、可採年数は現在35年弱であり、究極可採埋蔵量は100年前後、地球資源量は300年近くあるとされている。石炭・天然ガス等を含めて化石燃料全体の可採年数は、なお最低数百年以上は存在しており、さらに既知の原子力や今後の高速増殖炉、核融合、および新・再生エネルギーを含めて考えれば、潜在的にはほぼ無限ともいえる資源余力が存在している。
第四に、資源の再循環利用(リサイクリング)や廃棄物の再生利用の可能性が大であり、それを現実化するための技術およびエネルギー供給が保証されるとすれば、新規の処女資源必要量は減少するであろう。さらに枯渇が問題になれば、資源価格が上昇し、節約・有効利用は促進され、また資源間の代替も加速され、希少な資源にかわって、より豊富な資源が利用されるようになり、特定資源の不足は軽減・除去されていくであろう。
第五に、再生産可能な食糧や農林産原材料について、その物理的限界が一部で重大視されている。食糧生産に必要な基本的資源である土地について、FAO(国連食糧農業機関)等の推計では、世界全体の潜在的可耕地は30数億ヘクタールであり、現在の耕地の合計は14億ヘクタール前後で、なおかなりの耕地拡大の余地は存在している。しかし、すでにもっとも肥沃(ひよく)で入植しやすい土地は利用されており、今後の新規の耕地の開発利用には、入植、整地、土壌の改善、灌漑(かんがい)等のために、巨額の資本や人的資源の投下が不可欠であろう。
だが、多くの農業経済学者たちは、耕地面積の拡大による今後の食糧増産ではなくて、むしろ既耕地における生産性の向上、とくに東側(北側の生産性の約半分)と南側(北側の約3分の1)とにおける生産性の向上を重視している。新たな技術革新がなくとも、北側の既存の技術や方法を、南や東へ移転し適用していくことにより、増産の大きな可能性があり、食糧生産に関する物理的限界は差し迫ってはいないと判断している。
第六に、資源全般はむろんのこと、とくに食糧の場合、供給面だけでなくて、需要・消費面が決定的な重要性をもっている。欧米先進国の食生活の水準は、熱量摂取量や栄養バランス=P・F・Cバランス(タンパク質・脂質・炭水化物のバランス)からみて、生理的最適水準を超えて飽食しており、アンバランス(Fのとりすぎ、Cの不足)に陥っている。現在の「日本型食生活」が、ほぼ生理的最適水準を達成しているといわれている。もし世界全体として、こうした生理的最適水準の実現・維持を今後目ざしていくとすれば、人口1人当りの摂取熱量やP・Fの必要量には歯止めがかかり、食糧供給が加速的に増加していかなければならない必要性は、かならずしも存在しなくなるであろう。
第七に、資源の生産コストや価格の長期にわたる動向を分析してみても、短期的には激しい乱高下が生じているが、絶対的および相対的なコストや価格は、けっして上昇していず、どちらかといえば、低下傾向にある事実が重要であろう。少なくとも、経済学的に判断する限り、資源の物理的枯渇が進んでいると結論することは不可能であろう。
[深海博明]
このように、地球資源枯渇が差し迫った問題でないとすれば、資源問題に関しては手放しの楽観論をもつことができ、資源危機はまったくの虚構であるといえるのであろうか。現段階ないし近い将来において問題や危機が生ずるとすれば、それは、地球資源の物理的な賦存や潜在的可能性を、実際の国際政治経済関係および国内政治経済関係の舞台において現実化し、資源の開発・供給を確保していくことが、かならずしも保証されていないことに主として根ざしている。世界全体さらに各地域・各国・各人の必要に応じて、資源の開発・供給・輸送・分配・利用・消費等が、以下の理由から、円滑に行われない可能性が強く存在している。
第一に、世界資源問題発生の根本的要因は、経済空間と政治空間(統治可能空間)、すなわち経済の実態と政治やその枠組みとの間の矛盾・ギャップが、現段階で一つの極限に到達していることに求められるであろう。
経済の実態面とりわけ資源取引の面では、経済活動は国境を越え、まさに世界的に展開している。世界資源最富裕国といえども、国際交流を完全に断っては、円滑な経済の運営や国民生活の維持が不可能な状況下にある。それに対し、政治面や制度は、依然として基本的に国民国家nation-stateという狭い枠内にとどまっている。
最近高揚している資源ナショナリズムや狭い国益追求による国際的な資源獲得抗争は、過去の植民地支配や従属もその一因となっているが、根本的にはこの矛盾・ギャップに根ざしており、国民国家という政治・枠組みからの、経済の実態面とくに資源問題の国際化の進展に対する反発・反撃であると、みなすこともできるであろう。
近い将来において、経済の実態に適合する形で、国民国家が変容し世界国家形成の方向に向かうと安易に期待することは不可能であるし、逆に、経済の実態を国民国家の枠内に押し込み、国際交流を完全に断って、自給自足的な経済運営を目ざすこともできない。したがって、この原因に基づく資源問題発生の可能性は将来も根強く存在しており、漸進的にではあっても、双方が歩み寄り調整しあう方向での解消の努力がなされていかねばならない。
第二に、北側の先進国においては、ある程度福祉国家が現実のものとなり、最低生活の保障や極端な不平等是正といった形での、公正や正義の目標が達成されているが、これを国際的にも拡大し、公正・正義の目標の実現を目ざす動きが、南北問題の解決といった形で高まりつつある。とくに南北間の所得水準・資源消費水準の大きな格差の是正や、資源の生産と消費との格差是正(南側で生産された資源の多くは北側に運ばれてそこで加工・消費されている)を志向する要求が強まり、北側が自らの必要なだけ資源を獲得・消費してよいのかどうかが、再検討されつつある。
第三に、主要資源において、南側を中心とする保有国側が手を結んで、輸出国機構や生産国同盟を形成し、生産・供給・輸出の調整や価格の維持・引上げを図る動きが、1960年代後半から強まってきている。二つの石油危機の一因となったOPEC(オペック)(石油輸出国機構)やOAPEC(オアペック)(アラブ石油輸出国機構)の石油戦略は、その代表的なしかも輝かしい成功を収めた事例として、注目されてきた。
しかし1980年代に入ると、原油価格の大幅な引上げは、有効利用・節約や代替エネルギーへの転換やOPEC以外の原油生産の増大を生じさせ、一転して価格は低下・低迷し、供給過剰に苦しむ事態が生じている。市場・需給の条件を無視した行動は、経済が基本的に具備している調整・転換能力によって、手厳しい反撃を受けることが明白となり、中・長期的には、こうした資源カルテルといわれる輸出国機構等に起因する資源危機は、むしろ重視されなくなっている。
第四に、各国が経済の調整・受容能力をどれだけもっているのかが決定的に重要である。北側で達成されている農業生産性を南側で実現できれば食糧問題は解決される可能性を指摘したが、南側でそれを実現するためには、土地改革、農民の教育や技術指導、資金等の供与、流通制度の改変などの抜本的な息の長い政策措置を実施していくことが不可欠であり、これらなしには潜在的可能性にとどまらざるをえない。
第五に、「油断」や「食糧輸入ゼロの日」といった、戦争・紛争の勃発(ぼっぱつ)やゲリラ行動や事故等により、生産の減少や輸送・積出し設備の破壊や海上等の輸送ルートの遮断といった形で、日本への資源供給が、一時的ではあるが、突然しかもかなりの期間にわたって途絶したり、大幅に削減されたりする可能性も十分にあろう。
[深海博明]
最後に日本に着目して、その資源問題の特徴・特殊性を考慮しておきたい。
第一に、主要資源の圧倒的に高い対外依存度である。対外依存度は、エネルギー全体で9割前後(なお原子力発電は準国産エネルギーとされているが、燃料のウランは輸入に依存)、工業原材料全体では9割を超え、食用農産物総合自給率は7割強であるが、穀物の自給率は3割強、オリジナル・カロリーの自給率は5割強にすぎない。
第二に、現状では主要資源は圧倒的に対外依存しているが、明治維新から大正にかけての近代化の時期には、主要鉱物資源(石炭・銅等)は輸出商品であったし、世界の資源生産に占める日本のシェアは、世界の国土面積に占めるシェアの0.27%を、アルミニウム、ニッケル、石油等を除けば、現在でも上回っており、日本は絶対的資源希少国とはいえないであろう。むしろ日本は、狭い国土に1億2000万人もの人口を抱え、世界の総生産(GNP)の1割を生産しており、資源の需要・消費が国内生産を大幅に上回っているという、相対的希少性が中心であろう。1973年(昭和48)の第一次石油危機に至る高度成長・重化学工業化の推進の過程で、主要資源消費(エネルギー資源、銅、錫(すず)、アルミニウム、ニッケル、粗鋼等)は急増し、経済成長率を上回り、対外依存度が急上昇している。
第三に、その結果として、現在でも日本は世界有数の資源輸入国であり、主要資源の世界輸入に占める日本のシェアは1~4割に達し、石炭、鉄鉱石、銅、木材等では、世界第1位の輸入国となっている。
第四に、しかし第一次石油危機を転機として、劇的ともいえる転換が生じ、資源の節約・有効利用が推進され、産業構造面でも、資源多消費型の基礎素材産業が伸び悩み、資源寡消費型の加工組立て産業が急成長し、さらに、エレクトロニクス化を中心とする技術革新が大いに進展し、「重厚長大」から「軽薄短小」へその中心が移行している。
こうした結果として、経済成長と資源の需要・消費との関係に大きな変化が生じ、需要が伸び悩むだけでなくて、1980年代に入り、絶対的減少すら生じている。エネルギー・資源のGNP原単位(GNP1単位当りのエネルギー・資源消費量)は大きく低下している(1973~84年の間にエネルギー原単位は3割近く低下)。
第五に、日本は、資源のほとんどを海外に依存しているため、1984年をみても、輸入の7割強が資源であり(食料品11.7%、原料品14.3%、鉱物性燃料44.2%)、発展途上国からのシェアが56.2%に達している。反面、輸出のほとんどが製造工業品であり、先進国へのシェアが56%を超えている。欧米諸国が先進国相互間の製品貿易・水平貿易が中心であるのに比べて、特異なパターンをもっている。
しかも、これまでは資源の消費地精錬・精製主義に重点を置いてきた結果として、未加工資源の輸入が中心であり、資源保有国における探査・開発に積極的に参加した資源輸入の比率が低く、単純輸入や融資買鉱方式の比率が高い。これに対して資源保有国側からの加工資源ないし製品の輸出の要求が強まっている。最近の経済・貿易摩擦の解消のための一助としても、加工資源ないし製品輸入への転換をいっそう図っていくことが不可欠であろう。
第六に、日本の資源の対外依存度は圧倒的に高く、完全な自給自足は、経済的(とくにコスト的)にだけではなくて、物理的にも不可能であることを前提として、問題の解決を図っていかねばならない。具体的に、食糧の輸入主要作物(コムギ、オオムギ、雑穀、ダイズ)を国内で生産するだけで1200万ヘクタール以上の耕地を必要とするが、それだけで現在の耕地の2倍以上に相当する。
[深海博明]
現段階では、世界的に資源需給は逼迫(ひっぱく)から緩和の方向に転換し、危機意識は姿を消し、楽観論が支配的となっている。まずこうした状況が、今後も永遠に持続しうるのかどうかを、筋を通して総合的に問い直してみる必要があろう。
現在の楽観的情勢は、実は二つの石油危機を中心として危機意識が強まり、価格の高騰が生じ、経済社会が、それらに対する対応を懸命に行ってきた結果として生じてきたのである。今後、手放しの楽観論に陥って真剣な対応を怠るならば、さらに価格の低下・低迷によって、インセンティブ(誘因)が逆に作用することになるであろうから、中・長期には、需給はまた逼迫の方向に向かい、資源問題が再燃してくることは必至であろう。
なお、専門家たちは地球の資源余力の存在についてむしろ楽観的であるが、逆に、供給された資源とくにエネルギー(なかでも石油を中心とする化石燃料)の利用・消費面に、重大な地球生態学的なレベル・限界が厳存する可能性を深刻に懸念し始めている。
具体的に、化石燃料の消費によって大気中の二酸化炭素(CO2)濃度が上昇し、地球の温暖化現象が生ずる結果、南極大陸の氷が融(と)け海面が上昇して世界の主要都市が水没し、また降雨地帯や降雨量が変化し、農業生産地帯や生産量が激変し、人類がそれに迅速に対応しえぬ限り、重大な食糧危機が生ずる可能性が大である。さらに化石燃料(とくに石炭)の使用増大によって生ずる酸性雨は、湖沼・土壌および作物に大きな被害を与えることになる。また人類がエネルギー消費を急増し続けていけば、廃熱の影響によって、自然界の風や波のシステムが大きく乱され、異常気象が生じ、農業生産が重大な影響を受け、人類の生存自体が脅かされる可能性が存在している。
これらの危機の発生の時期や可能性について、いっそうの調査研究が必要であるが、もし地球全体としての大きなレベルや限界が厳存しているのであれば、総合的に世界全体のエネルギーや資源の消費の調整や抑制を行っていかないと「合成の誤謬(ごびゅう)」が生じ、重大な危機に遭遇することになるであろう。まさにここに、世界共同体意識の確立や世界的な協力・調整の進展のための一つの重大な契機が求められるであろう。
世界のどの国も、とりわけ資源の対外依存度の圧倒的に高い日本は、完全な自給自足化は近い将来においては不可能であることを前提に、国際平和・国際協調を維持・増進し、国際関係全体そして国際資源関係をいかに円滑かつ安定的に推進していくのかに、いっそうの努力を傾注していくべきであろう。
日本としては、受け身かつただ乗り的に、必要資源の海外からの輸入・確保を図るだけではなく、国際的に真の相互依存関係が成立するように、資源の探査・開発、現地での加工等のために、資金や技術や人的資源を投入し、さらに資源の輸入の見返りに、相手国にとっても不可欠な技術や資本財や生産財等を提供するように努めていくべきである。
これまで日本経済が発揮してきた抜群の転換能力や柔軟性を維持・増進し、新しい技術開発や人的資源面で、今後いっそう切り札を持ちうるような方向を重視するとともに、世界の一割国家・リーダー国となった事実も十分に認識し、平和国家・戦争放棄国の国是を生かして、軍事力の増強のためではなく、世界の資源問題の解決に多額の資金を提供していくといった発想をもち、早急にその実現を図るべきであろう。
一般的に資源問題といえば、政府や経済界・産業界がもっぱら解決の担い手であり、責任をもつべきだと考えられがちであるが、国民一人一人、消費者各自もその担い手であり、責任の一端を負っていることを自覚し、資源の有効利用・節約に努め、さらに政府や産業界の資源政策のあり方を監視し、望ましい方向に向けていくように、積極的に働きかけていかねばならない。
結びとして日本の、ひいては世界の資源問題解決の大きな鍵(かぎ)なり夢なりは、海洋国家日本の再生にあるのではなかろうか。四囲を海に囲まれ、海と慣れ親しんできた日本は、改めて海洋の活用に着目し、海洋生物資源の有効・循環利用を図り、海底油田のみでなく太陽エネルギーの利用の場として、さらに潮力、波力、海水の温度差といった大きなエネルギー源として重視し、また深海底鉱物資源や海水溶解資源の膨大な供給可能性の現実化に努めるべきである。海や海洋資源は人類共通の財産であるという主張や認識に基づいて、究極的な問題解決を目ざしていくべきではなかろうか。
[深海博明]
『石光亨著『人類と資源』(日経新書)』▽『アメリカ合衆国政府特別調査報告、田中努監訳『西暦2000年の地球 要約編』(1980・日本生産性本部)』▽『アメリカ合衆国政府特別調査報告、逸見謙三・立花一雄監訳『西暦2000年の地球1――人口・資源・食糧編』『西暦2000年の地球2――環境編』(1980、81・家の光協会)』▽『科学技術庁資源調査会編『将来の資源問題』上下(1972・大蔵省印刷局)』▽『科学技術庁資源調査会編『日本の資源――21世紀への課題と対策』(1981・大成出版社)』▽『科学技術庁資源調査会編『日本の資源図説』最新版(1982・大蔵省印刷局)』▽『経済審議会長期展望委員会経済社会安全小委員会報告、経済企画庁総合計画局編『2000年の日本(各論)――多重的な経済社会の安全を求めて』(1982・大蔵省印刷局)』
資源ということばはよく使われる。しかしその内容認識は人によって非常に違っているようである。近年地球規模で資源が論じられることが多いが,そのようなときには主として人間の利用できる天然資源natural resourcesを指すようである。しかし,一方〈人的資源〉なることばも使われ,この場合は人間がみずからを客観的に見て,なんらかの目的の達成には人間も必要な資源と考えているのであろう(〈人的資本理論〉の項参照)。この意味では人間の活動および目的追求のため必要なものが〈資源〉であり,いずれの場合も本質的な差はない。しかし一般には先に述べたように具体的な内容をもったことばとして使われることが多い。とくに,増加しつづける世界の人口を養うための地球資源earth resourcesが決して無限ではなく,人類の成長に限界があるとの新しい認識でこの資源ということばを眺めると非常に生きた現実的意味をもってくる。人口と資源の問題に人類はあらためて直面しつつあり,地球の有限性,あるいは人間活動を収容する地球が文字どおり有限の容量しかもたないことに気づき,その対応策をあらためて模索しているからである。これはマクロな資源観であるが,一方資源をミクロにみると直接的な資源開発の問題となる。
ひるがえって資源とは一体なにかをあらためて考えれば次の3要素を忘れるわけにはいかない。(1)自然の状態で,十分に〈濃集〉していること,(2)十分な〈量〉があること,(3)手の届く〈位置〉にあることで,以上の3要素のいずれを欠いていてもそれは資源と呼ぶにふさわしくない。たとえば〈量〉のみに注目をして海水は大きな資源でほとんどあらゆる物質を含んでおり,しかも量も大きく目の前にあるといった単純な海水資源論は,水そのものの塩分などは十分に〈濃集〉されているが,これらの物質以外を抽出するとすれば費用がかかりすぎ現実的でない。かりに海水から金を採るとすれば膨大な海水を化学的に処理しなければならず,現在の技術水準ではとても採算に合わない。また地球の中心は鉄でできているが,これは鉄資源だろうか。〈量〉,〈濃集〉のされ方もたいへんなものであるが,とても人間が取り出せる〈位置〉にはない。同様のことはいわゆる最近の宇宙資源論についてもいえる。一方,位置,濃集度ともに合格でも十分な量がなければこれも経済的でない。このように資源と呼ぶには少なくともこの三つの条件を同時に満足しなければならないことがわかる。これはいずれも経済性からきているもので,かなり一般にあてはまり,地表の森林資源であろうと地下資源,あるいは生物資源であろうと変りはない。
資源はまた別の角度からも眺められる。それは年々生産されるものか,過去の遺産なのかであり,それぞれ再生可能資源renewable resources,非再生可能資源nonrenewable resourcesと呼ばれている。石油資源は非再生的であるが,森林,魚介などの生物資源は再生的である。しかし水資源では地表水は再生的であるが地下水は人間の時間スケールで眺めると非再生的なことが多く,地下水利用による地盤沈下問題などは資源採集の速さが資源再生を上回っているために起こる。この意味で資源を再生,非再生的に分けて眺めるのもそれほど単純でない。すなわち,森林,水,生物等の天然資源を再生的と考え,鉱物資源と区別するのも考えもので,利用の速度が速すぎれば本来再生的なものも非再生資源となる。いくつかの生物の種が絶滅に瀕(ひん)しているなどそのよい例である。生物の種は,その個体数がある閾値(いきち)を下回ると生存できなくなり,資源として枯渇してしまう。このように考えると,資源の問題では必然的に資源量の評価,管理,モニターがたいせつであることがわかり,経済原則のみにゆだねられない別の側面のあることに気づく。
かりに問題を国家という単位で眺めると資源は〈十分低廉〉でなければならないと同時に〈安定供給〉されなければならない。低廉でしかも安定な資源供給ができるのは自国内に大量の資源を保有している国のみである。日本の場合この条件を満たしていないのが問題である。かつて石油がきわめて低廉であったとき,日本は石油の自主開発の努力を怠った。日本の石油開発への投資は現在でも先進工業国のなかで目立って少ない。世界の生産量のほぼ10%を消費していながら,探査,開発,いわゆる上流部門への投資は世界の1%程度しかなく,技術開発投資は0に近い。これに反して石油精製,流通の下流部門は消費10%が示すとおり大きい。日本の石油業界はバランスのとれない発展をしたのである。安い石油を買えばそれでよく,探査,開発に伴うリスクは負担しないということになる。反面この低エネルギーコストに支えられ日本は他に例をみない高度成長をとげることができたのである。しかしこれには安定供給の側面についての配慮を欠いていた。1973年の石油危機で先進工業国中最も衝撃を受け,経済的にも打撃を受けたのは日本であったことを考えれば,安定供給が国策としてたいせつであることがよく理解される。それではエネルギーの安定供給を重視しすべて自主開発の石油を用いることとし,国内石炭をコストをまったく無視して国民に利用させたらどうなるであろうか。輸出で生きている日本の製品コストが上昇して売れなくなる。すなわち国として経済的に破綻(はたん)してしまう。このように資源の安定供給と低廉でなければならないという二つの命題は互いに矛盾するのである。資源に乏しい日本のかかえる不可避の問題で,今まで日本人は資源は低廉であればそれでよいという経済優先の立場をとることが多かったが,今後改めていく必要がある。一方,自国に資源が少ない場合,国際的に強い影響力をもっていれば資源の安定確保に役立つが,日本では難しい。有事に弱い日本の体質はわれわれ国民がみずから選択してきたといわざるをえないのであって,政府のみに責めをもっていくわけにはいかない。矛盾する命題の間で国としてどこに位置するのがよいかを決めるのは今後ますます重要なテーマである。
一方どの国も自国内で資源をすべて賄うことは難しいから,資源の国際的な取引,流通が本質的に重要である。資源問題が国際問題となりやすいのはこのような事情にもよる。資源に乏しい日本では国際紛争がたとえ非常な遠隔地で起こっても大きな影響を受ける。有事に弱い円は資源の海外依存度がとくに高い日本の特質をよく表している一つの指標である。しかし資源の問題が国際政治に深くかかわり合う理由はほかにもある。その一つは資源が均等に地球上に分布していないことである。最もわかりやすい例が石油の中東偏在で,多くの国際紛争はこれに原因がある。この資源の地域偏在性は,今後予想される発展途上国での集中的人口増加,ならびに先進工業国に偏った資源の消費パターンと複雑にからみ合う。これらの地域偏在性は問題をさらに難しくしており,とくに深刻な南北問題を誘起する可能性がある。すなわち資源総供給量と急速に増加する総人口の関係のアンバランスだけでもたいへんであるのに,資源の配分の問題が加わるのである。
このように総人口の増加は資源問題の原点であるが,とくにこの人口を支える十分なエネルギーを果たして確保できるのかどうかが焦眉の課題である。石油がなくなれば原子力,太陽エネルギーがあるという考えは問題を正しくとらえていない。アメリカ政府機関の地球に関する調査報告である《西暦2000年の地球》(1981)をはじめとする各種の報告によれば,ウラン資源は在来技術である軽水炉で燃やすかぎり,エネルギー量としては少なくなったといわれる石油よりも少ないといわれている。高速増殖炉,核融合技術などの速やかな開発が望まれる。一方,太陽エネルギーは照射のエネルギー密度が小さく,資源として〈濃集〉されていないので,エネルギー需要の大きな部分を賄うまでには技術的に難しい問題を解決しなければならない。人類は21世紀に入っても石油,天然ガス,石炭を中心としたエネルギー供給構造をとらざるをえない。
ところで,このエネルギー問題は金属,各種の材料など,他の資源問題と本質的に違うことに注意しておこう。ひとくちに資源・エネルギーとあらゆる資源をひとまとめに扱うことが多いが,実際の資源問題の展開のしかたは資源の種類によって違い,とくに需要と供給の経済動向からみるとエネルギーは他の資源ときわ立って違う。たとえば昔は高価であった銅は有史以来の実質価格でみるかぎり下がりつづけており,今後上がる可能性は少ないとみられている。一方エネルギー価格は上がりつづけているという。前者は古代,刀剣等にも用いられ貴重であったが,そのいくつかの用途はしだいに鉄にとって代わられた。これに加えてアルミニウムが現れ,さらに高分子材料なども出現した。このため材料としての銅の需要は減りつづけた。たとえば銅でなければならない唯一の特徴に電気伝導度のよさがあげられるが,電線としての需要については近年光ファイバーが現れ通信分野の需要を奪いつつある。以上が元素そのものを用いる資源としての銅のたどった道である。一方エネルギーはいわば物質の状態の変化に関係しており,元素そのものを利用するものでない。したがって多くの金属資源とは違い再生は不可能で,ここにも本質的違いがある。このように資源にとり代替品がありうるかどうかが長期的にみた需要と供給を決めるもう一つの重要な要因である。この関係が商品としての資源の価値を決めている。現在,エネルギーはきわめて代替品が少ない。
人間の活動は近年ますます大規模化し,資源の問題はいっそう複雑,かつ国際化していく。地球規模での資源の管理,有効利用がたいせつであるというのはこのためであるが,同時に地球規模で活動することになった人類にとってもう一つ大事なことがある。それは地球環境の保全で,資源と環境の問題が資源の十分な供給と同時に重要な問題となりつつある。
→エネルギー資源
執筆者:石井 吉徳
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