日本歴史地名大系 「里城跡」の解説 里城跡さとじようあと 長崎県:北松浦郡田平町田平村里城跡[現在地名]田平町里免里田原(さとたばる)北側の丘陵に築かれた中世の城館の跡。史料上は田平城とも。建久三年(一一九二)頃の築城と伝え、松浦氏の居城とされるが、同氏の祖という源久が延久元年(一〇六九)摂津国より肥前国松浦(まつら)郡に移住したとされることを含めて明らかではない。久の孫にあたる源五郎披を祖とする峰氏は文治元年(一一八五)源頼朝の家人となり、建久三年に御厨(みくりや)庄の地頭職を得て、田平の里城に移ったという。披の子の持、その弟の馴の時代に田平は峰氏の拠点となり、居城の整備も進められたものと思われる。鎌倉幕府の滅亡以前の正慶二年(一三三三)閏二月峰定(峰貞)は上洛して後醍醐天皇方として行動、建武三年(一三三六)足利尊氏が京都を確保すると九州に落ち、一色範氏らに追討が命じられ(同年七月二九日「足利尊氏御教書案」武雄神社文書)、その所領五島の西浦目(にしうらめ)半分を没収された(同年四月日「青方高直申状写」青方文書)。 里城跡さとのじようあと 熊本県:球磨郡多良木町多良木村里城跡正確な比定地は不明だが、球磨川流域の里城・久鹿(くしか)・馬門(まかど)一帯の丘陵地が城跡と伝わる。地元では「さとんじょう」と発音する。南側の崖下に球磨川が流れ、かつて着船場があった。東側の田代(たしろ)ヶ丘(おか)公園と迫の間を走る凹道には堀(ほり)・桜馬場(さくらばば)の呼称が残る。また城跡から土師質土器片が多量に出土する。城主は上相良氏一族で、鍋(なべ)城の外城であったらしい。上相良多良木家八代御連続之次第(歴代私鑑)の第八、相良左衛門尉頼観法名蓮珍の項に「伝記曰頼氏ヨリ頼忠迄五代鍋ノ城在城、頼久頼観二代ハ内城居城ノ由、今ノ里ノ城ハ御仮屋屋敷ニテ御坐候由」とあり、里城が御仮屋屋敷として記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by