野代村(読み)のだいむら

日本歴史地名大系 「野代村」の解説

野代村
のだいむら

[現在地名]小浜市野代

生守いごもり村の西南に位置し、西はみなみ川に至り、東は聖谷ひじりだに山麓妙楽みようらく寺の門前村。中世には今富いまとみ名・富田とみた郷に属し、村名は天文四年(一五三五)一〇月一八日付の道高如法経料寄進札(妙楽寺所蔵)に「野田井村」とみえる。弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)には「百五十文 のたい村」と出る。慶長五年(一六〇〇)一〇月一九日付京極高次黒印状(組屋家文書)によれば、この時京極高次の代官組屋六郎左衛門の支配下に置かれた。正保郷帳によれば田方三三八石余・畠方一一石余。


野代村
のしろむら

[現在地名]野々市町野代一―三丁目

手取川扇状地北東部に位置し、西は二日市ふつかいち村。富樫とがし用水の分流十人じゆうにん川が集落の東側を北流する。「加賀志徴」の引く本願寺派諸寺系図によると、享禄錯乱の際の野代合戦で、超勝ちようしよう寺蓮超の弟超玄が討死したとされる。正保郷帳に村名がみえ高二〇一石余、田方一二町二反余・畑方一町二反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二〇八石、免四ツ七歩(三箇国高物成帳)


野代村
のだいむら

[現在地名]堺市鳳西おおとりにし町一―二丁

長承寺ちようしようじ村の西に位置する。集落は村の北東部に集中する。大鳥郡に属する。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に「野田井」とみえ、高一四六石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では野代村とみえ長承寺村と合せて六八六石余、慶安四年(一六五一)和泉国郷村高辻帳では一村で一三六石余となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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