日本歴史地名大系 「野島村」の解説 野島村のじまむら 富山県:中新川郡上市町野島村[現在地名]上市町野島眼目(さつか)村の西、上市川中流北側の段丘上に位置し、南から西にかけては上市川の段丘、北は広野(ひろの)村。広野村の新開という(越中志徴)。段丘がせり出した場所があり岩出(いわで)ヶ鼻(はな)という。斉神新(さいのかみしん)村から眼目村に至る道筋にあり、当村と眼目村の途中に片地(かたじ)村への分れ道がある。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高四七石、免三ツ二歩。ほかに明暦二年(一六五六)の新田高五石がある。小物成は山役八五匁・蝋役四匁、鮭役二匁(退転)・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。江戸時代初め上市川本流は極楽寺(ごくらくじ)村から丸(まる)山の河岸段丘沿いに稗田(ひえだ)村・法音寺(ほうおんじ)村の間を通り正印(しよいん)村と川原田(かわらだ)村付近で白岩(しらいわ)川と合流していくつかの分流となり、氾濫を繰返した。 野島村のしまむら 和歌山県:御坊市野島村[現在地名]御坊市名田(なだ)町野島南塩屋(みなみしおや)浦の南にあり、西は紀伊水道に面する。海岸段丘上に先史遺跡・古墳が多く、祓井戸(はらいど)古墳群南東の祓井戸遺跡からは、弥生時代後期の製塩土器が採集され、早くから製塩が行われていたと考えられる。村内を熊野街道が通り、「万葉集」巻一に載る、中皇命が紀温泉(現西牟婁郡白浜町の白浜温泉)に行く途次に詠んだ<資料は省略されています>の野島・阿胡根の浦は当地付近という。天保六年(一八三五)村の田地中より唐の開元通宝のほか三〇余枚の宋銭が出土した(紀伊名所図会)。 野島村のじまむら 埼玉県:岩槻市野島村[現在地名]岩槻市野孫(のまご)孫十郎(まごじゆうろう)村の西から南にかけてに位置し、西は尾(お)ヶ崎(さき)村。元荒川と綾瀬川に挟まれた沖積平野に立地し、集落は自然堤防上に形成されている。野島方(のじまがた)村ともいう。宝暦六年(一七五六)まで岩槻藩領、以後は幕府領。田園簿に野島方村とみえ、高は田方五九七石余・畑方一二三石余。延宝八年(一六八〇)の岩付領内村名石高家数人数寄帳(吉田家文書)には野島村とあり、家数二〇(本百姓一五・水呑五)、人数一一六、岩槻藩の地方支配は下郷(しもごう)筋に所属。貞享三年(一六八六)の岩槻藩領郷村高帳によると高七二〇石余、小物成は野銭永二三文、見取場田五反余。 野島村のじまむら 埼玉県:越谷市野島村[現在地名]越谷市野島小曾川(おそがわ)村の西に位置し、北は元荒川に限られる。同川右岸の自然堤防上に住家が点在し、その西は末田(すえだ)村(現岩槻市)の集落に接する。村名は当地浄山(じようざん)寺宛の天正一九年(一五九一)一一月日付徳川家康朱印状(浄山寺文書)に「武蔵国崎西郡野嶋村」とみえる。田園簿によると高は田方一〇二石余・畑方七四石余、幕府領。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by