金奎植(読み)きんけいしょく(英語表記)Kim Gyu-sik

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金奎植」の意味・わかりやすい解説

金奎植
きんけいしょく
Kim Gyu-sik

[生]高宗18(1881).漢城
[没]1950. 満浦鎮?
韓国の独立運動家,政治家。号は尤史。孤児として宣教師 H.アンダーウッドのもとで西洋式教育を受け,光武1 (1897) 年渡米,同8年プリンストン大学大学院卒業。帰国後延禧専門学校教授。 1913年中国に亡命し,19年には大韓民国臨時政府の外務総長としてパリ講和会議に派遣され,欧米委員部 (外交代表部) 委員長として活躍。 22年モスクワで開かれた極東民族大会朝鮮代表として参加,23年アメリカのローノク大学で名誉博士となり,北京南京四川などの各大学で講義を行なった。 35年南京で民族革命党を組織し,党首。 44年重慶で臨時政府の副主席となり,45年解放とともに帰国。 46年民主議院副議長,過渡立法議院議長となり,中間派のリーダーとして左右合作に尽力し,48年南朝鮮での単独選挙に反対して金九とともに南北協商のため平壌に行ったが成果はなく,政府樹立後引退。 50年朝鮮戦争の際に後退する北朝鮮軍に拉致され,満浦鎮で死んだと伝えられる。

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改訂新版 世界大百科事典 「金奎植」の意味・わかりやすい解説

金奎植 (きんけいしょく)
Kim Kyu-sik
生没年:1881-1950

朝鮮の独立運動家,政治家。号は尤史。慶尚南道生れ。1897年渡米,ローノーク大学英文科を卒業。1904年帰国しYMCA幹事などを務めたが,13年中国に亡命。19年には大韓民国臨時政府代表としてパリ講和会議に赴いたが参席を拒否された。22年モスクワでの極東民族大会に参加。その後民族革命党主席,臨時政府副主席に就任。解放後,右派代表として左右合作に努力。48年南朝鮮単独選挙に反対して金九とともに南北連席会議に参加。朝鮮戦争勃発後入北したのち,病死
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百科事典マイペディア 「金奎植」の意味・わかりやすい解説

金奎植【きんけいしょく】

韓国の政治家。ソウル生れ。米国のプリンストン大学卒。1913年中国に亡命し朝鮮独立運動に参加,大韓民国臨時政府の外交活動を担当,民族革命党を結成。解放後に帰国,1946年呂運亨(りょうんこう)と協力して左右合作委員会をつくり,過渡立法院議長となる。南北統一を主張して活動したが,朝鮮戦争中,朝鮮民主主義人民共和国に入り,病死。

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世界大百科事典(旧版)内の金奎植の言及

【三・一独立運動】より

…1918年秋,中国東北部,シベリア方面に移住していた朝鮮人は,ロシアの革命派に協力して日本のシベリア出兵軍と戦っていた。同じころ,アメリカや上海で活動していた安昌浩,呂運亨,金奎植らのグループは,パリ講和会議に朝鮮人代表を派遣し,朝鮮独立の必要性を国際世論に訴えるため奔走していた。さらに,朝鮮内では天道教,キリスト教,学校の教師・学生の間でそれぞれ独自に独立運動計画が練られていた。…

※「金奎植」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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