日本大百科全書(ニッポニカ) 「朝鮮独立運動」の意味・わかりやすい解説
朝鮮独立運動
ちょうせんどくりつうんどう
1910年の朝鮮併合から1945年の解放までの35年間、日本の支配からの解放、民族の独立を求めて繰り広げられた朝鮮人民の闘い。朝鮮国内はもちろん、朝鮮人の多数居住する中国・日本など国外各地でも、絶えることなく展開された。
[水野直樹]
1910年代
併合前後、日本の侵略に抵抗する義兵闘争と愛国啓蒙(けいもう)運動は激しい弾圧を受け、その指導者らは「満州」(中国東北)、ロシア領沿海州などに逃れ、そこに独立運動の根拠地を築くことに努めた。国内では憲兵・警察による弾圧体制の下でも国民会、光復会(後述の祖国光復会とは別)などの秘密結社が活動を続け、また、天道教、キリスト教などの宗教組織、朝鮮人経営の私立学校、書堂などが民族意識を守り育てる場として機能した。独立運動史上画期的意義をもつ三・一独立運動は、このような活動を背景として全民族的運動へと発展した。
[水野直樹]
1920年代
三・一独立運動後、日本は「文化政治」を標榜(ひょうぼう)して言論・集会などの一定の自由を許したため、合法的な運動の展開がみられた。愛国啓蒙運動の理念を継承する民族主義者は、『東亜日報』などの新聞や雑誌による言論活動、国産品愛用・民族企業の育成を図る物産奨励運動、朝鮮人のための高等教育機関設立を目ざす民立大学期成運動などを展開したが、生存・生活の危機に直面する民衆の支持を得ることができなかった。
一方、国外在住朝鮮人を通じて社会主義思想がしだいに朝鮮国内にも広がり、社会主義運動が活発になった。朝鮮労働共済会(1920)をはじめ各地で労働団体、農民団体が組織され、労働争議、小作争議も盛んになった。1924年には全国組織の朝鮮労農総同盟、朝鮮青年総同盟が結成され、社会主義運動の発展を示した。翌25年4月、朝鮮共産党が結成され、6.10万歳運動などの独立運動の展開にも力を注いだ。
1927年2月には、民族統一戦線体の新幹会が組織され、民衆の支持を受けて4万人の会員をもつ組織に成長した。新幹会は、女性団体の槿友会(きんゆうかい)や労働組合、農民組合とともに活動し、民族意識を高めるうえで大きな役割を果たしたが、当局の弾圧、コミンテルンの路線転換、内部の意見対立などにより、自ら解散した(1931)。20年代末には、元山ゼネスト、光州学生運動など大規模な抗日運動も展開された。
[水野直樹]
戦時下の運動
朝鮮共産党が弾圧により壊滅し、コミンテルンの承認も取り消された(1928)のち、共産主義者は労農大衆を基盤とする党の再建を命じたコミンテルンの「十二月テーゼ」(1928)に従い、党再建活動、非合法の赤色労働組合・農民組合運動を各地で進めたが、成功をみないまま1930年代前半にはほとんど弾圧されてしまった。同じ時期、天道教徒中心の朝鮮農民社の活動、新聞社主催のハングル普及(識字教育)運動などが行われた。
戦時体制が強められた1930年代後半になると、小説家李光洙(りこうしゅ)のように日本の戦争遂行に積極的に協力する人物も現れ、公然たる運動は封じられたが、新聞写真から日章旗を抹消した事件や神社参拝の拒否など、日本への抵抗は散発的に続いた。朝鮮語の使用禁止に対して朝鮮のことば・文化を研究しこれを守る活動もなされたが、それすらも激しい弾圧の対象となった(朝鮮語学会事件、1942)。
戦争末期には、日本の敗戦を予想して呂運亨(りょうんこう)らが建国同盟をひそかに結成し(1944)、国外の独立運動とも連絡をとって解放・独立の日に備えた。
[水野直樹]
中国での独立運動
三・一独立運動の際、上海(シャンハイ)につくられた大韓民国臨時政府は、当初幅広い人々を結集していたが、内部対立によりしだいに力を弱めた。金元鳳(げんほう)を指導者とする義烈団は、朝鮮国内や日本に潜入して爆弾テロを繰り返した。多数の朝鮮人の住む「満州」を活動舞台とする独立軍は、離合集散を繰り返しながら正義府、新民府、国民府などの朝鮮人自治組織を生み出していた。1920年代なかばにはここでも社会主義者の影響力が強くなり、朝鮮共産党満州総局が組織されたが、30年の5.30間島武装蜂起(ほうき)を経て中国共産党に編入された。中国共産党の指導の下で日本の侵略と闘った東北人民革命軍(のち東北抗日連軍)には多くの朝鮮人が参加していた。そのなかの一人であった金日成(きんにっせい)は、祖国光復会(正式には在満韓人祖国光復会)の中心となり、朝鮮国内にも出撃して日本当局を恐れさせた。「満州」以外の地域では、臨時政府を守る金九らの韓国国民党(のち韓国独立党)、金元鳳らの民族革命党など多くの組織が存在していたが、1930年代後半、各組織による連合戦線結成の動きがみられ、臨時政府が重慶(じゅうけい)に移った(1940)のち、金九、金元鳳らは協力して韓国光復軍を編成した。これとは別に、金科奉、武亭らの共産主義者は朝鮮独立同盟、朝鮮義勇軍を組織し(1942)、対日戦に従事した。
[水野直樹]
日本での独立運動
併合後、日本に留学する朝鮮人学生は学友会に拠(よ)って民族意識の鼓吹に努め、1919年(大正8)2月、東京で「二・八独立宣言」を発表して三・一独立運動の口火を切った。20年代になると、社会主義グループが生まれるとともに、激増する朝鮮人労働者を組織した労働組合が東京、大阪などにつくられた。在日本朝鮮労働総同盟(1925結成)は約3万人の組合員を擁し、朝鮮共産党日本総局、新幹会支会(東京、京都、大阪、名古屋)や日本の左翼団体と協力して、労働運動、独立運動を活発に展開した。しかし、30年(昭和5)以降、これら朝鮮人団体は日本の左翼団体(日本共産党、労働組合全国協議会など)に吸収され、朝鮮人独自の運動は弱まった。朝鮮人団体としては、消費組合や東亜通航組合(大阪―済州島航路の自主運航組合)などが、在日朝鮮人の生活を守る活動を行った。
1930年代なかばには、反ファッショ人民戦線の動きと関連して、朝鮮人による新聞発行、演劇運動、合法的労働組合の結成などがなされたが、弾圧・監視体制の強化により沈黙を余儀なくされた。しかし、朝鮮人学生の小グループ活動や強制連行された朝鮮人労働者のサボタージュ・逃亡など、抵抗の動きは、日本敗戦の日まで続いた。
[水野直樹]
『趙芝薫著、加藤晴子訳『韓国民族運動史』(1975・高麗書林)』▽『徐大粛著、金進訳『朝鮮共産主義運動史』(1970・コリア評論社)』▽『朴慶植著『在日朝鮮人運動史』(1979・三一書房)』▽『文国柱編著『朝鮮社会運動史辞典』(1981・社会評論社)』