改訂新版 世界大百科事典 「極東民族大会」の意味・わかりやすい解説
極東民族大会 (きょくとうみんぞくたいかい)
1922年1~2月にモスクワとペテルブルグで開催の東アジア諸国の民主諸団体代表会議。極東人民大会とも訳され,極東勤労者大会の別称でも知られる。開催計画は1920年9月のコミンテルン執行委員会決議にまでさかのぼるが,21年夏以降に具体化した。当初,ワシントン会議(ワシントン体制)開会に対抗して21年11月11日にイルクーツクで始められるはずであったが,主催者側のジノビエフらの事情も絡んで,場所,時期ともに変更され,大会本会議のほか資格審査委員会,各国別分科会が開かれ,青年,婦人両部会も相前後して開催された。ワシントン会議が極東共和国に非公式代表資格を与えるにとどめ,ソビエト・ロシア政府,中国国民政府,大韓民国臨時政府,モンゴル人民政府などを除外して東支鉄道その他の利権再配分を協議しようとする形勢に,被圧迫民族の抗議を示すべく,中国の張秋白,朝鮮の金奎植,モンゴルのダンザンら民族主義者も参加した。この大会における成果として,片山潜,鈴木茂三郎,田口運蔵ら在米日本人社会主義者(アメリカ共産党日本人部)と高瀬清,徳田球一らコミンテルン日本支部準備会との統合,高麗共産党の呂運亨らイルクーツク派と李東輝,朴鎮淳ら上海派との和解,ダンザンらモンゴル人民党とモンゴル革命青年同盟との調整などがあった。また日本の社会主義運動史上における画期として,本大会が契機となって〈日本にも共産党をつくり統一的な活動をおこさねばならぬ〉という気運が生まれたことがある。日本共産党創立大会が行われたのは22年7月15日である。
執筆者:岩村 登志夫
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