金性洙(読み)きんせいしゅ(その他表記)Kim Sǒng-su

改訂新版 世界大百科事典 「金性洙」の意味・わかりやすい解説

金性洙 (きんせいしゅ)
Kim Sǒng-su
生没年:1891-1955

朝鮮政治家,教育者。号は仁村。全羅北道生れ。1914年早稲田大学卒業後帰国し,中央学校校長。19年京城紡織株式会社(のちの湖南財閥中心)を設立する一方,20年には《東亜日報》を創刊,実力養成を目標とする右派民族主義の中心となった。32年普成専門学校(高麗大学校前身)校長。解放後は,宋鎮禹らと韓国民主党結成党首。50年副大統領になったが,李承晩との対立から翌年辞任した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「金性洙」の意味・わかりやすい解説

金性洙
きんせいしゅ
Kim Sǒng-su

[生]高宗28(1891).10.21. 全羅北道,扶安
[没]1955.2.18. 釜山
韓国の教育家,政治家。号は仁村。 1914年早稲田大学政経学部卒業後帰国,15年中央学校校主となり,19年京城紡織株式会社を設立,20年朝鮮語 (ハングル) による民間紙『東亜日報』を創刊。 29~31年欧米旅行ののち,32年普成専門学校 (現高麗大学校) の校主を引受けるなど,民族ブルジョアジーとして教育,産業,言論で植民地朝鮮のナショナリズムリード。 45年解放とともにアメリカ軍政庁顧問会議長,46年韓国民主党首席総務 (党首) として政府樹立に活躍し,51年第2代副大統領に選ばれたが,イ・スンマン (李承晩) の独裁に反対して 52年辞退。野党を指導しつつ,55年2月 18日朝鮮戦争中に避難地釜山で病死した。

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百科事典マイペディア 「金性洙」の意味・わかりやすい解説

金性洙【きんせいしゅ】

朝鮮の政治家,教育者。号は仁村。全羅北道生れ。1919年京城紡織株式会社(のちの湖南財閥の中心)を設立,三・一独立運動の翌1920年《東亜日報》を創刊,1932年普成専門学校(高麗大学校の前身)校長。解放後,韓国民主党を結成,党首。1950年−1951年副大統領。
→関連項目宋鎮禹

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367日誕生日大事典 「金性洙」の解説

金 性洙 (きん せいしゅ)

生年月日:1891年10月21日
韓国の教育家,政治家
1955年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の金性洙の言及

【高麗大学校】より

…10年孫秉熙(そんへいき)が引き継ぎ15年普成法律商業学校,21年普成専門学校となり法・商科を置く。32年金性洙が引き継ぎ財団中央学園を確立,みずから校長として運営に努め〈第二の民立大学運動〉とうたわれた。44年京城拓殖専門学校と改称させられたが,解放後復旧,46年現在名となる。…

【湖南財閥】より

…全羅道(湖南とも呼ぶ)の大地主金氏一族が育てたのでこの名がある。1919年金性洙によって京城紡織(株)が設立され,その後中央商工,三養社(農場経営),海東銀行と次々に事業を拡張,38年には南満紡績(株)を設立して満州にも進出した。植民地下の朝鮮では最大の土着工業資本に成長したが,金融的には日本資本の支配を受けた。…

【東亜日報】より

…韓国の新聞。三・一独立運動の翌1920年4月金性洙らが創刊。初代社長朴泳孝,主幹張徳秀。…

※「金性洙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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