金杉村(読み)かなすぎむら

日本歴史地名大系 「金杉村」の解説

金杉村
かなすぎむら

[現在地名]台東区根岸ねぎし一―五丁目・三ノ輪みのわ一丁目、現荒川区東日暮里ひがしにつぽり一―六丁目など

竜泉寺りゆうせんじ村の北と西にある。北条氏所領役帳に飯倉弾正忠の知行分として 「千束内金杉村」一一貫二八〇文がみえる。戦国期には千束せんぞく郷に含まれていたらしい。天正一八年(一五九〇)の徳川家康関東入国後は同氏料所となり、正保三年(一六四六)に東叡山寛永寺領になって(「東叡山領知目録写」東叡山方書物之写)、以後しだいに町場化し、下谷金杉上したやかなすぎかみ町・下谷金杉下町が成立して村は東西に二分された。東方は東が日本堤にほんづつみ、西は下谷金杉下町、南は竜泉寺村、北は下谷三之輪したやみのわ町で限られ、千束耕地といわれる。西方は東が下谷金杉上町・下谷金杉下町、西は谷中本やなかほん村と東叡山御隠殿、南は下谷御箪笥したやおたんす町・下谷坂本裏したやさかもとうら町および東叡山内、北は三河島みかわしま(現荒川区)。さらに竜泉寺村を越えて日本堤際に飛地もあった。東西およそ一八町・南北一二町ほど(風土記稿)


金杉村
かなすぎむら

[現在地名]松伏町金杉

大川戸おおかわど村の東、江戸川右岸に立地する。金杉河岸が置かれていた。西は庄内古しようないふる川が南東流する。寛永一八年(一六四一)の江戸川改修に伴い同川右岸となったとされる。元禄郷帳に村名がみえ、高一千七一石余。幕府領として幕末に至ったとみられる。天保九年(一八三八)七月に地内の堤が切れ、民家床上五―六尺あるいは軒場まで水につかり、田畑作物はもとより農具家財まで流失、「急夫食・再夫食」の支給を出願したという(「粕壁宿代助郷免除願」石川家文書)。金杉河岸の開設時期は明らかではないが、元禄三年(一六九〇)の関東八ヶ国所々御城米運賃改帳(千葉県伊能家文書)に江戸川筋金杉川岸とあり、江戸まで川道一二里、運賃は一分一厘としている。


金杉村
かなすぎむら

[現在地名]野田市金杉、埼玉県北葛飾郡松伏まつぶし町金杉

柳沢やなぎさわ村の北にある。しかし同所は飛地で、本村は西方に遠く離れた江戸川の右岸、現松伏町域にある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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