竜泉寺(読み)りゆうせんじ

日本歴史地名大系 「竜泉寺」の解説

竜泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]富田林市竜泉

だけ山の東丘陵中腹に位置する。高野山真言宗、牛頭山医王院と号し、本尊薬師如来。寛平六年(八九四)三月五日の河内竜泉寺氏人等請文案(春日大社文書)によると、当寺は氏人等の祖先蘇我大臣が、推古天皇四年に鎮護国家のため建立したという。また「上宮太子拾遺記」巻三所引の元興寺縁起には、推古天皇四年に島大臣(蘇我馬子)が石川の神名傍山でひそかに竜泉寺を禅行院として起こした旨が記される。「日本書紀」敏達天皇一三年条に「馬子宿禰、亦、石川の宅にして、仏殿を修治る」とみえる仏殿を当寺とみる説もある(富田林市史)。前掲請文案には「寺辺敷地山内三百町」とあり、また「紺口庄水田等氏人(ママ)領家地」「山地一処 在古市郡・石川両郡 科長郷」ともみえる。

竜泉寺縁起(竜泉寺蔵)によると、当初寺の池には悪竜がおり寺僧や住民に害を与えていたが、馬子の諫めにより去ったという。天長年間(八二四―八三四)この池が枯渇したとき、空海の祈祷で清泉が湧出し、これが寺号の由来と伝える。「大師御行状集記」の竜泉寺の条や「元亨釈書」も同様のことを載せ、弘法大師と寺号の由来や竜神信仰と関係づけている。

竜泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]西有田町大字大木字大木宿

現在大木宿おおぎしゆくの国道二〇二号脇にあるが、当初山谷やまだに村の唐船とうせん城南の字平瀬ひらせ、いまのまき橋近くにあった。山号は平瀬山。真言宗大覚寺派。本尊は観世音菩薩。かつて黒髪山西光密さいこうみつ寺大智院(現武雄市)の末寺であった。

竜泉寺創立由来記によれば、天文元年(一五三二)唐船城城主丹後守有田政開基、阿哲法印の開山。旱天続きの年、水天の秘法により降雨となったので丹後守は喜び、一寺を建立して竜泉寺と名付けたという。

竜泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]守山区吉根 松洞

松洞山と号し、天台宗。本尊馬頭観世音。標高七〇メートルほどの丘陵上にある。北側は断崖となって庄内川に落ちており、眺望がよく、境内の一画に竜泉寺城が置かれた。寺伝では、延暦年中(七八二―八〇六)最澄が熱田社に参籠して修法している時、竜神の告げによってこの地に来て、多羅々たららヶ池(多々羅ヶ池の誤伝)より出現した馬頭観音の像を安置した茅堂を営んだのが始まりという。熱田社の奥院と称し、空海が熱田社に参籠の時、この山に詣でたともいう。

「沙石集」に次のようにみえており、鎌倉時代からすでに馬頭観音の霊所であったことが知られる。

<資料は省略されています>

小牧・長久手の戦の時、秀吉の軍はここに陣し、寺堂に放火した。

竜泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]田原町田原 新町

清谷山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。寺伝によると、文禄元年(一五九二)田原八幡社の社人屋敷に真宗上宮じようぐう(現岡崎市)支配の説教道場があり、これを創建してのち稗田ひえだに移転し、隣接の現在地に寺地を定めた。「寺院明細書」には境内除地高一石五斗九升九合とある。境内一千二〇〇坪、墓地には東本願寺の妙好人園女の墓とその子息田原藩蘭方医鈴木春山の墓がある。

影法師かげぼうし塚は竜泉寺境内にある芭蕉の句碑。

竜泉寺
りようせんじ

[現在地名]三間町土居中

土居中どいなかの小高い丘の上にあり、隣に清良きよよし神社が並び、北方に土居清良の本拠であった大森おおもり城跡が望める。臨済宗妙心寺派に属し、牛河山と号す。山号の由来は寺伝によると、本尊観音菩薩牛之河うしのかわ(現広見町牛野川)から飛来したので牛河山と名付けたという。

延宝九年(一六八一)の「吉田古記」には「千手観音堂」と記され、のちに宇和島仏海ぶつかい寺の末寺となった。

竜泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]矢巾町岩清水

北谷地きたやち山から南東に突き出た竜泉寺山麓に位置。山を背景に唐塀をめぐらしており、寺域が山に没していることから山寺と通称される。洞吟山と号し曹洞宗で、本尊釈迦如来。もと盛岡源勝げんしよう寺末。寺伝によれば、文禄三年(一五九四)岩清水いわしみず館主岩清水右京泰宏が開基となり、清耽を開山として創建された。文政六年(一八二三)の本堂再建棟札がある。なお源勝寺はかつて当地にあったが、のち土館つちだて(現紫波町)に移り、さらに慶長年間(一五九六―一六一五)盛岡城下に移ったという。

竜泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]美方町秋岡

秋岡あきおか集落の北西部にある。大菩薩山観音院と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。寛元年中(一二四三―四七)八木七郎高茂入道見阿の創建と伝え(田公退城記・七味叢誌)、初め観音寺と号し、真言寺院であったという。天正五年(一五七七)兵火によって焼失したが、翌六年諸国巡歴の途次に当地に立寄った竜泉坊(京都妙心寺海山の弟子という)が寺の頽廃を嘆き、字横井よこいに小庵を建て再興、このときに寺号を竜泉寺と改め、臨済宗に転じたという。

竜泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]猿島町沓掛

沓掛くつかけほぼ中央の中北なかぎた坪、内野山うちのやまに至る道の北に所在。大政山無量寿院と称し真言宗豊山派。本尊阿弥陀如来。参道に松が並び、山門・鐘楼・本堂がある。江戸時代に数回の火災にあったと伝えられる。「下総旧事考」には「創建不詳、隷生子満蔵院、寺領二石」とあり、寺領は慶安二年(一六四九)に与えられたもの。

竜泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]秋田市旭北寺町

旭北寺きよくほくてら町北部。時宗、常盤山と号し、本尊は阿弥陀如来。

開山・開基には諸説がある。宝永二年(一七〇五)の「六郡総諸寺院由緒」(県立秋田図書館蔵)によれば、開山は輪長、正中元年(一三二四)常陸に常盤山蔵泉寺藤沢道場を建立、九代即往の時、永徳二年(一三八二)寺号を竜泉寺と改めた。

竜泉寺
りゆうせんじ

[現在地名]五所川原市 末広町

旧五所川原町の北西の末広すえひろ町にある。喰川山と号し、曹洞宗、本尊釈迦如来。もと月峰げつぽう(現弘前市)末。月峰院の檀家が弘前まで行くのでは不便と、みなと村の墓守堂を喰川しよくかわ村の空地へ移し、竜泉庵を建立(平山日記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報