長尾景仲(読み)ながお・かげなか

朝日日本歴史人物事典 「長尾景仲」の解説

長尾景仲

没年:寛正4.8.26(1463.10.8)
生年嘉慶2/元中5(1388)
室町時代の武将山内上杉氏重臣。武蔵・上野守護代。上野白井城(北群馬郡)城主で白井長尾氏の当主。左衛門尉。法名昌賢。房景の子で景守の養子という。永享の乱前後は,同族の長尾忠政・実景上杉憲実を当主とする山内上杉氏の家宰職にあったが,景仲は憲実の子上杉憲忠の擁立を主導し,さらに宝徳2(1450)年には鎌倉公方足利成氏を討とうとして失敗するなど独自の動きを示している。そして享徳3(1454)年に憲忠が成氏に謀殺され,実景もこれに殉じると,一門の代表として山内上杉家の家宰の地位に立ち,上杉方の中心として活動することになった。翌康正1(1455)年,上杉持朝や太田資清と共に上杉軍を指揮して武蔵府中などで成氏方と戦い,一方で室町幕府に事態を報告してその後援を取り付け,さらに憲忠の弟の房顕を招いて上杉方の大将に据えた。そして武蔵五十子を中心にして成氏方と対陣を続け,寛正4(1463)年に76歳で死去した。景仲が混乱のなか上杉方の中核として活躍したことにより白井長尾氏の地位は高まり,その死後は子の景信が家宰職を継いで上杉軍を指導することになった。

(山田邦明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長尾景仲」の意味・わかりやすい解説

長尾景仲
ながおかげなか

[生]元中5=嘉慶2(1388)
[没]寛正4(1463).8.26. 鎌倉
室町時代の武将。鎌倉長尾房景の子。法名は昌賢。上野白井の長尾景守を継いで関東管領上杉憲実に仕えた。永享 10 (1438) 年永享の乱で憲実が鎌倉公方足利持氏と不和になった際,憲実を居城の上野白井城に迎えた。乱後,持氏の遺子成氏が鎌倉公方となり,関東管領には憲実の子憲忠が任命されたが,やがて成氏と憲忠とが不和となるや憲忠を助けた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長尾景仲」の解説

長尾景仲 ながお-かげなか

1388-1463 室町時代の武将。
嘉慶(かきょう)2=元中5年生まれ。長尾房景(ふさかげ)の子。上野(こうずけ)(群馬県)白井の長尾景守の養子となり,応永8年白井城主,白井長尾氏当主となる。山内上杉氏の執事となり上杉憲実(のりざね)につかえ,上野守護代をつとめた。康正(こうしょう)元年足利成氏(しげうじ)とたたかい敗北した。寛正(かんしょう)4年8月26日死去。76歳。通称は孫四郎,左衛門尉。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の長尾景仲の言及

【享徳の乱】より

…一方,関東管領は上杉憲実の子憲忠が任ぜられており,成氏と憲忠の間はうまくいかなかった。成氏は下向すると千葉,小山,宇都宮らの豪族層を重用したため,山内上杉憲忠,扇谷上杉顕房の両上杉氏やその執事である長尾景仲,太田資清らとの間に不穏な空気が流れはじめ,翌年4月成氏は鎌倉から江ノ島に移り,長尾,太田らがこれを攻めるという事態となった。両者は一時和睦したが,54年12月成氏が憲忠をその第に召して謀殺するに及び,成氏と両上杉との間の対立は決定的となり,四半世紀をこえる享徳の乱が勃発した。…

※「長尾景仲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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