南北朝時代の公家(くげ)、連歌(れんが)作者、文学者。諡(おくりな)を後普光園院(ごふこうおんいん)という。関白道平の嫡子。初め後醍醐(ごだいご)天皇に仕えたが、南北朝時代以後は、北朝の五代の院に歴仕し、太政(だいじょう)大臣に至り、摂政・関白を歴任すること四度に及んだ。有職(ゆうそく)故実に通じ、廃れている公事(くじ)をおこすことを念願して、『百寮訓要抄』『衣(きぬ)かつぎの記』『さかゆく花』その他の書を著作。和歌は、『風雅和歌集』撰進(せんしん)前後は京極(きょうごく)風の和歌を詠んでいたが、のち為定に師事して二条風に転じ、『後普光園院殿御百首』を詠んで、頓阿(とんあ)、慶運、兼好の合点(がってん)を得ている。ついで1366年(正平21・貞治5)には『年中行事歌合(うたあわせ)』を主催して、その判詞を執筆、その翌年の『新玉津島歌合』においても主要な役割を演じ、82年(弘和2・永徳2)には『新後拾遺(しんごしゅうい)和歌集』の仮名序を執筆している。歌論書としては、頓阿と共著の『愚問賢注(ぐもんけんちゅう)』(1363)、87年(元中4・嘉慶1)松田貞秀(さだひで)に書き与えた『近来風体抄(きんらいふうていしょう)』があって、ともに後代の二条派歌人に重んぜられた。このように、中世和歌史で果たした良基の役割は、かならずしも小さなものではないが、良基自身は和歌にそれほど熱意を有していたとは考えられず、公事の一環としてたしなむ程度のものであったと思われる。
それに対して、もっとも熱情を傾注し得意としたのは連歌であって、その青年時代から順覚、信照、救済(きゅうせい)などの地下(じげ)連歌師と連歌会をともにしていたが、のちには救済1人を師と定め、その協力のもとに1356年(正平11・延文1)には『菟玖波(つくば)集』を編集し、72年(文中1・応安5)には『応安(おうあん)新式』を制定するなど、連歌の文芸性の向上と確立を図っている。その作品は、『菟玖波集』に87句入集(にっしゅう)しているほか、主催し参加した千句や百韻としては『文和(ぶんな)千句』(五百句現存)、『何船(なにふね)百韻』『独吟何所百韻』『石山百韻』などが現存しており、その代表作「月は山風ぞ時雨(しぐれ)に鳰(にほ)の海」は、謡曲『三井寺(みいでら)』にも引用されている。連歌論書には『連理秘抄』(その初稿本『僻連(へきれん)抄』は26歳のときの著作)、『撃蒙(げきもう)抄』『筑波(つくば)問答』『九州問答』『連歌十様』『十問最秘抄』などがあり、当代連歌界の向かうべきところを指示している。門弟のなかで、今川了俊(りょうしゅん)と梵灯(ぼんとう)には著書も多く、良基の教えを伝えている。なお、1353年(正平8・文和2)美濃(みの)国小島(おじま)(岐阜県揖斐川(いびかわ)町)の行宮(あんぐう)まで旅をしたときの紀行に、『小島のくちずさみ』があり、歴史物語『増鏡(ますかがみ)』も良基の著作である可能性のきわめて強いものである。
[木藤才蔵]
『福井久蔵著『二条良基』(1943・青梧堂)』▽『伊藤敬著『南北朝の人と文学』(1979・三弥井書店)』▽『木藤才蔵他校注『日本古典文学大系66 連歌論集他』(1961・岩波書店)』▽『伊地和鉄男他校注・訳『日本古典文学全集51 連歌論集他』(1973・小学館)』
南北朝時代の公卿で優れた文化人,連歌作者。五湖釣翁,関路老槐と称し,また後普光園院と号した。関白二条道平の嫡子で京都に生まれ,初めは後醍醐天皇に仕えたが,南北朝分立後は北朝に参じ,1346年(貞和2)関白初任,以後摂関職に4度まで還補され摂政現職のまま没。82年(永徳2)執筆の《新後拾遺和歌集》仮名序で,勅撰集序としては初めて武士階層(足利氏)の政治的業績を評価するなど,進歩的,現実主義的な思想を有し,北朝保持に努めた。文芸においては多方面に活躍し,有職故実の権威であり,文壇の指導者でもあった。和歌は初め京極風,のち二条風に転じて頓阿に学び,《愚問賢註》などを著し二条派歌風を宣揚した。連歌は若年より救済(ぐさい)に師事し,その協力を得て連歌最初の準勅撰集《菟玖波(つくば)集》を編纂,また《応安新式》を制定し,さらに《僻連抄》(1345)をはじめ《筑波問答》《十問最秘抄》ほか多数の連歌論を著述。晩年には足利義満のサロンを指導し,義堂周信や世阿弥とも交わり,北山文化を創造した一人であった。摂関家の公卿でありながら当時の武士・地下階層の文化的エネルギーを汲み取り,とくに連歌の文芸的価値の向上に尽力した功績は大きい。〈花にけふ風は軒ばの木ずゑかな〉(《菟玖波集》)は,良基の華やかな句風を示す。著述はほかに《小島の口ずさみ》《榊葉(さかきば)の日記》《年中行事歌合》《百寮訓要抄》など多数。
執筆者:赤瀬 信吾
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(湯川敏治)
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1320~88.6.13
南北朝期の公卿・歌人・連歌師。諡は後普光園院(ごふこうおんいん)。道平の子,母は西園寺公顕の女。はじめ後醍醐天皇に仕えたが,南北朝期には北朝の5代の天皇に仕えて太政大臣に至り,4度摂政・関白となった。足利将軍家とも親近した。連歌にうちこみ,救済(きゅうぜい)と協力して准勅撰集「菟玖波集(つくばしゅう)」を編纂し,自句を87句入集したほか,連歌論書は「連理秘抄」「撃蒙抄」「筑波問答」「九州問答」など,古典学では「万葉詞」の著作のほか,「光源氏一部連歌寄合」の成立にかかわった。和歌は二条派の二条為定と頓阿(とんあ)に師事。勅撰集に入集し,「近来風体抄」の著もある。連歌の門弟に梵灯庵(ぼんとうあん)と今川貞世(了俊)がいる。
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…一般に《連歌新式》ともいう。1372年(応安5),二条良基が救済(ぐさい)の協力を得て,それ以前の《連歌本式》や,また特に《建治新式》(現存せず)に基づいて制定したという。雑多であった連歌式目を統一し,勅許を仰いで世にひろめ,以後の規範となった。…
… 序・破・急という三つの構成部分を認識することは,室町時代においては,雅楽以外の分野においても,かなり広く行われていたようである。たとえば二条良基は,《筑波問答》において〈楽にも序・破・急のあるにや。連歌も一の会紙は序,二の会紙は破,三,四の会紙は急にてあるべし。…
…義満の世阿弥寵愛は尋常でなく,彼の勘気にふれて東国を流浪していた連歌師の琳阿弥は,世阿弥に自作の謡(うたい)を義満の御前で謡ってもらって勘気を許されている。足利武将らも将軍の機嫌をとるために世阿弥を引き立てたし,北朝公家の代表格の二条良基も13歳の世阿弥に〈藤若〉の名を与え,自邸の連歌会に藤若を加えてその句を激賞したりしている。良基の文章によれば,世阿弥は稀代の美少年で,能芸に秀でるのみならず,13歳の時すでに鞠(まり)や連歌に堪能だったという。…
…連歌論。二条良基著。1巻。…
…藤原氏北家の嫡流。五摂家の一つ。九条道家の次男良実を始祖とし,家号は良実の殿第に由来するが,二条の坊名にちなんで銅駝(どうだ)の称もある。承久の乱後,時の権臣西園寺公経の女婿九条道家は,みずから摂政・関白に就任したばかりでなく,教実,良実,実経の3子を次々に摂関の座につけ,九条家の全盛を謳歌した。ところが1246年(寛元4)の名越氏,翌年の三浦氏の乱に関連して,道家および摂政実経が失脚するや,道家はこれを前関白良実の幕府に対する誣告(ぶこく)によるものと推断し,良実を義絶した。…
※「二条良基」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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