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二条良基 にじょうよしもと

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

二条良基
にじょうよしもと

[生]元応2(1320)
[没]元中5=嘉慶2(1388)
南北朝時代の歌人,連歌作者。関白,太政大臣,摂政などを歴任。初め後醍醐天皇に仕えたが,のち北朝に仕えた。歌道に通じ,博学多識。特に連歌の興隆に果した役割は注目される。救済 (ぐさい) の協力を得て『菟玖波集 (つくばしゅう) 』を正平 11=延文1 (1356) 年に編纂,文中1=応安5 (72) 年には『応安新式』 (『連歌新式』) を制定。父道平のあとをうけて 20歳前後から邸宅で連歌会を催し,生涯指導的立場にあった。連歌論書も多く著わしているが,特に『筑波問答』は後世に影響を与えた。連歌の作者としても著名で,『菟玖波集』には 87句入集。ほかに連歌論書『僻連抄』 (45) ,『撃蒙抄』 (58) ,『愚問賢註』 (頓阿と共著) ,『九州問答』 (76) ,『連歌十様』 (79) ,『十問最秘抄』 (83) ,『近来風体抄』 (87) ,『知連抄』 (87) ,紀行『小島 (おじま) の口ずさみ』 (53) など。『増鏡』もその作かといわれる。

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デジタル大辞泉の解説

にじょう‐よしもと〔ニデウ‐〕【二条良基】

[1320~1388]南北朝時代公卿歌人連歌師。初め後醍醐天皇に仕え、のち北朝の天皇に仕えた。和歌頓阿(とんあ)に学び、連歌は救済(ぐさい)を師としてともに「菟玖波(つくば)集」を撰し、式目を制定するなど、連歌の文学的地位を確立した。歌論「近来風体抄」、連歌論「筑波問答」「応安新式」「連理秘抄」など。

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百科事典マイペディアの解説

二条良基【にじょうよしもと】

南北朝時代の文化人藤原良基とも。五摂家の一つ二条家の関白道平の嫡子。北朝の側でいくども摂関職についた。和歌は頓阿らとともに二条派の歌風を宣揚,連歌は救済(ぐさい)と協力して連歌式目《応安新式》を制定,《菟玖波集》を編纂(へんさん)。
→関連項目増鏡幽玄連歌

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

二条良基 にじょう-よしもと

1320-1388 南北朝時代の公卿(くぎょう),歌人。
元応2年生まれ。二条道平の子。北朝方として関白,太政大臣,摂政を歴任。従一位。有職(ゆうそく)故実に通じ,和歌を頓阿(とんあ),連歌を救済(ぐさい)にまなぶ。「菟玖波(つくば)集」の編集,連歌論書の執筆にあたった。嘉慶(かきょう)2=元中5年6月13日死去。69歳。号は五湖釣翁,関路老槐など。著作に「筑波問答」「連理秘抄」「十問最秘抄」など。
【格言など】人のならい,みな我が事は是と思い,人の事は非と思うなり(「筑波問答」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

二条良基

没年:嘉慶2/元中5.6.13(1388.7.16)
生年:元応2(1320)
南北朝時代の公家。父は二条道平。母は洞院公賢の娘。嘉暦3(1328)年従三位に叙せられて以来,左右大臣を経て貞和2/正平1(1346)年関白・氏長者。貞治2/正平18年関白に再任され,永和2/天授2(1376)年准三后。その後2度関白を務めた。号は後普光園院。北朝の光明,崇光,後光厳,後円融,後小松の天皇5代に仕えたが,後光厳天皇の践祚に出仕したことで,文和2/正平8年南朝が京都を奪還した際,家記文書を没収され失意のため病むに至った。南朝に京都を追われた後光厳天皇が美濃小島へ行宮を移すと,病をおして京都を脱出,小島へ向かう。その道中や小島滞在中の描写が紀行文『小島の口ずさみ』である。連歌は救済に学び延文1/正平11年には,救済と共に最初の連歌撰集『G7EDF玖波集』の企画・編集を行い,翌年佐々木導誉の執奏により准勅撰集としての扱いを受けた。応安5/文中1(1372)年には連歌の式目『連歌新式』を定め,連歌中興の祖と称される。連歌関係ではほかに,『連理秘抄』(1349),『撃蒙句法』(1358),『筑波問答』(1372),『九州問答』(1376),『連歌十様』(1379)などがあり,連歌の本質・作法を説きその地位を高めた。『連歌十様』は足利義満に贈ったものであるが,義満とのかかわりは連歌にとどまらない。良基は義満の重要な顧問役として宮中の作法を教え,参内に同行するなど,王権簒奪計画を意図したとされる義満を背後から支える存在であった。<参考文献>木藤才蔵『二条良基の研究』,今谷明『室町の王権』

(湯川敏治)

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世界大百科事典 第2版の解説

にじょうよしもと【二条良基】

1320‐88(元応2‐嘉慶2)
南北朝時代の公卿で優れた文化人,連歌作者。五湖釣翁,関路老槐と称し,また後普光園院と号した。関白二条道平の嫡子で京都に生まれ,初めは後醍醐天皇に仕えたが,南北朝分立後は北朝に参じ,1346年(貞和2)関白初任,以後摂関職に4度まで還補され摂政現職のまま没。82年(永徳2)執筆の《新後拾遺和歌集仮名序で,勅撰集序としては初めて武士階層(足利氏)の政治的業績を評価するなど,進歩的,現実主義的な思想を有し,北朝保持に努めた。

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大辞林 第三版の解説

にじょうよしもと【二条良基】

1320~1388) 南北朝時代の歌人・連歌作者。関白道平の子。和歌を頓阿に学び二条派を再興。連歌は救済きゆうせいを師としてともに「菟玖波集」を編纂へんさんし、式目を制定するなど、連歌文芸の基本的性格を示した。有職ゆうそく故実にも通じた。著「愚問賢註」「近来風体抄」「応安新式」「連理秘抄」「筑波問答」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

二条良基
にじょうよしもと
(1320―1388)

南北朝時代の公家(くげ)、連歌(れんが)作者、文学者。諡(おくりな)を後普光園院(ごふこうおんいん)という。関白道平の嫡子。初め後醍醐(ごだいご)天皇に仕えたが、南北朝時代以後は、北朝の五代の院に歴仕し、太政(だいじょう)大臣に至り、摂政・関白を歴任すること四度に及んだ。有職(ゆうそく)故実に通じ、廃れている公事(くじ)をおこすことを念願して、『百寮訓要抄』『衣(きぬ)かつぎの記』『さかゆく花』その他の書を著作。和歌は、『風雅和歌集』撰進(せんしん)前後は京極(きょうごく)風の和歌を詠んでいたが、のち為定に師事して二条風に転じ、『後普光園院殿御百首』を詠んで、頓阿(とんあ)、慶運、兼好の合点(がってん)を得ている。ついで1366年(正平21・貞治5)には『年中行事歌合(うたあわせ)』を主催して、その判詞を執筆、その翌年の『新玉津島歌合』においても主要な役割を演じ、82年(弘和2・永徳2)には『新後拾遺(しんごしゅうい)和歌集』の仮名序を執筆している。歌論書としては、頓阿と共著の『愚問賢注(ぐもんけんちゅう)』(1363)、87年(元中4・嘉慶1)松田貞秀(さだひで)に書き与えた『近来風体抄(きんらいふうていしょう)』があって、ともに後代の二条派歌人に重んぜられた。このように、中世和歌史で果たした良基の役割は、かならずしも小さなものではないが、良基自身は和歌にそれほど熱意を有していたとは考えられず、公事の一環としてたしなむ程度のものであったと思われる。
 それに対して、もっとも熱情を傾注し得意としたのは連歌であって、その青年時代から順覚、信照、救済(きゅうせい)などの地下(じげ)連歌師と連歌会をともにしていたが、のちには救済1人を師と定め、その協力のもとに1356年(正平11・延文1)には『菟玖波(つくば)集』を編集し、72年(文中1・応安5)には『応安(おうあん)新式』を制定するなど、連歌の文芸性の向上と確立を図っている。その作品は、『菟玖波集』に87句入集(にっしゅう)しているほか、主催し参加した千句や百韻としては『文和(ぶんな)千句』(五百句現存)、『何船(なにふね)百韻』『独吟何所百韻』『石山百韻』などが現存しており、その代表作「月は山風ぞ時雨(しぐれ)に鳰(にほ)の海」は、謡曲『三井寺(みいでら)』にも引用されている。連歌論書には『連理秘抄』(その初稿本『僻連(へきれん)抄』は26歳のときの著作)、『撃蒙(げきもう)抄』『筑波(つくば)問答』『九州問答』『連歌十様』『十問最秘抄』などがあり、当代連歌界の向かうべきところを指示している。門弟のなかで、今川了俊(りょうしゅん)と梵灯(ぼんとう)には著書も多く、良基の教えを伝えている。なお、1353年(正平8・文和2)美濃(みの)国小島(おじま)(岐阜県揖斐川(いびかわ)町)の行宮(あんぐう)まで旅をしたときの紀行に、『小島のくちずさみ』があり、歴史物語『増鏡(ますかがみ)』も良基の著作である可能性のきわめて強いものである。[木藤才蔵]
『福井久蔵著『二条良基』(1943・青梧堂) ▽伊藤敬著『南北朝の人と文学』(1979・三弥井書店) ▽木藤才蔵他校注『日本古典文学大系66 連歌論集他』(1961・岩波書店) ▽伊地和鉄男他校注・訳『日本古典文学全集51 連歌論集他』(1973・小学館)』

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世界大百科事典内の二条良基の言及

【応安新式】より

…一般に《連歌新式》ともいう。1372年(応安5),二条良基救済(ぐさい)の協力を得て,それ以前の《連歌本式》や,また特に《建治新式》(現存せず)に基づいて制定したという。雑多であった連歌式目を統一し,勅許を仰いで世にひろめ,以後の規範となった。…

【序破急】より

… 序・破・急という三つの構成部分を認識することは,室町時代においては,雅楽以外の分野においても,かなり広く行われていたようである。たとえば二条良基は,《筑波問答》において〈楽にも序・破・急のあるにや。連歌も一の会紙は序,二の会紙は破,三,四の会紙は急にてあるべし。…

【世阿弥】より

…義満の世阿弥寵愛は尋常でなく,彼の勘気にふれて東国を流浪していた連歌師の琳阿弥は,世阿弥に自作の謡(うたい)を義満の御前で謡ってもらって勘気を許されている。足利武将らも将軍の機嫌をとるために世阿弥を引き立てたし,北朝公家の代表格の二条良基も13歳の世阿弥に〈藤若〉の名を与え,自邸の連歌会に藤若を加えてその句を激賞したりしている。良基の文章によれば,世阿弥は稀代の美少年で,能芸に秀でるのみならず,13歳の時すでに鞠(まり)や連歌に堪能だったという。…

【菟玖波集】より

…《筑波集》《古筑波》とも。二条良基救済(ぐさい)の協力で古代から当代までの連歌作品を集大成したもので,構成は勅撰和歌集にならう。准勅撰となり,連歌の文学的地位を確立。…

【筑波問答】より

…連歌論。二条良基著。1巻。…

【二条家】より

…藤原氏北家の嫡流。五摂家の一つ。九条道家の次男良実を始祖とし,家号は良実の殿第に由来するが,二条の坊名にちなんで銅駝(どうだ)の称もある。承久の乱後,時の権臣西園寺公経の女婿九条道家は,みずから摂政・関白に就任したばかりでなく,教実,良実,実経の3子を次々に摂関の座につけ,九条家の全盛を謳歌した。ところが1246年(寛元4)の名越氏,翌年の三浦氏の乱に関連して,道家および摂政実経が失脚するや,道家はこれを前関白良実の幕府に対する誣告(ぶこく)によるものと推断し,良実を義絶した。…

【増鏡】より

…17巻本と20巻本がある。著者は二条良基が有力視されるが,確証はない。《大鏡》《今鏡》《水鏡》とならぶ〈四鏡〉最後の作品。…

※「二条良基」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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