長岩城跡(読み)ながいわじようあと

日本歴史地名大系 「長岩城跡」の解説

長岩城跡
ながいわじようあと

[現在地名]耶馬渓町川原口

おうぎ山の山上にあった野仲氏代々の居城。戸原野中氏系図(野中文書)によると、宇都宮宗房の子重房から野仲氏を称し、兼綱・兼紀・重澄・重世・隆種・房直・兼輔・道棟・道清・助道・保道・道俊・道雄・道氏・政道・重道・弘道・盛道・弘昌・重胤・重兼と続く。初代重房は建久六年(一一九五)下毛野仲のなか(現中津市)を領知して野仲姓を称し、尾屋敷おやしき(現柿坂)に居住し、同九年津民つたみ庄に長岩城を築いて移ったと伝える。伝存史料に登場する野仲氏は文永年間(一二六四―七五)以降のことで、系図は疑わしいところが多いので、以下史料に基づいて簡単に野仲氏の活動を整理する。

養和元年(一一八一)二月野中次郎緒方惟能に従う(「吾妻鏡」同月二九日条)。元暦二年(一一八五)野仲郷司が下毛しもつみけ岐浦きうら三丁を押領(同年三月日「大神安子等連署解状案」益永文書)。助道は野仲郷司・御家人で、元久―天福年間(一二〇四―三四)頃の人(延慶三年正月二六日「鎮西下知状写」到津文書)


長岩城跡
ながいわじようあと

[現在地名]浮羽町新川

隈上くまのうえ川上流、通称長岩ながいわのお堂付近にあった問注所氏の居城。天正七年(一五七九)以降大友氏の筑後支配が後退するなか、問注所統景は長岩城を守り大友氏に忠節を尽した。同九年と推定される九月一八日の大友円斎書状(問注所文書/大分先哲叢書「大友宗麟」五)に「長岩一城」とみえるのが早く、同年一二月七日に大友宗麟が問注所氏に銀一貫五〇〇目(「大友府蘭書状」同上)、翌一〇年一〇月二七日には大友義統が同じく城料として山北やまきた八〇町を宛行い(「大友義統書状」問注所文書/福岡県史資料一〇)、同一二年にはさらに銀五〇疋を与えている(三月一六日「大友義統書状」問注所文書/福岡県古文書等緊急調査報告書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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