知恵蔵 の解説
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
潜伏キリシタンの時代は、16世紀末から19世紀まで。イエズス会のザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えたのが、1549年。肥前大村(長崎県)を治める大村純忠が最初のキリシタン大名となったことから、長崎は「日本の小ローマ」として布教の中心になった。しかし、1587年に豊臣秀吉がバテレン追放令を出すと一転、布教は禁止され、江戸幕府はより厳しい弾圧・迫害を続けた。こうした禁教下でも天草地方では、土着神道の信者や仏教徒を装いながら、ひそかにカトリックの信仰を守り続ける人々がいた。こうした信徒を「潜伏キリシタン」という。潜伏キリシタンは特定の集落に住み、教会の代わりに山(安満岳)や島(中江ノ島)を聖地とあがめたり、観音像をマリア像に見立てたりして、幕府の監視の目から逃れてきた。江戸時代の島原・天草一揆(1637年)の舞台となった原城跡を含め、こうした過酷な歴史を超えた信仰の継承が高く評価されている。
その後、江戸幕府は1858年に欧米諸国と安政五カ国条約を結び、宣教師の入国も半ば容認することとなった。しかし、明治時代になると五榜の掲示(1868年)で切支丹禁制を掲げるなど、再び禁教を強化。欧米諸国の抗議によって、1873年に禁教が撤廃されると、信仰を守り続けてきた天草の各集落に小さな教会が建てられ、長崎の大浦天主堂もゴシック洋式の大聖堂へと修築された。なお、明治時代の宣教師が伝えたカトリックとは一線を画し、潜伏時代からの信仰を今日まで継承し続けている信者のことを「カクレキリシタン」として区別することもある。国内の世界遺産としては、同じ北九州の「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群に続いて22件目となる。
(大迫秀樹 フリー編集者/2018年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報