日本歴史地名大系 「長洲庄」の解説
長洲庄
ながすのしよう
市域南東部に所在した奈良東大寺領庄園。同寺領
ところが、長渚浜の住人は検非違使庁からの庁役を忌避するため中央の権門貴族の散所となる手段を選んだことから、長渚散所が成立し、同散所を伝領した小野皇太后(藤原歓子、教通の娘)宮職が応徳元年(一〇八四)八月一〇日に京都
当地をめぐる争いは寛治年間(一〇八七―九四)の相論に続いて、康和―嘉承年間(一〇九九―一一〇八)にも行われ、御厨地は東大寺が領掌し、在家は賀茂社領とする裁決が下され一応の決着をみているが(前掲嘉承元年五月二九日官宣旨)、住民に対する支配強化を企図する同寺と、在家支配を媒介として領域的な支配を目指す賀茂社との対立はその後も続き、機会を捉えて提訴が繰返されていった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報