長洲庄(読み)ながすのしよう

日本歴史地名大系 「長洲庄」の解説

長洲庄
ながすのしよう

市域南東部に所在した奈良東大寺領庄園。同寺領猪名いな庄南端の海岸部に形成された砂洲の浜地が発達して庄園となった。天平勝宝八歳(七五六)一二月七日の摂津国河辺郡猪名所地図写(尼崎市教育委員会蔵)には「長渚浜」とみえるが、八世紀頃にはまだ陸地化しておらず、この記載は平安末期以降の書加えと考えられる。同寺が当地に支配を及ぼすようになるのは一〇世紀以降とみられ、天暦一〇年(九五六)以降の当地に関する文書が残る(応保元年九月二二日「東大寺進上文書目録」東大寺文書。以下断らない限り同文書)。また永延元年(九八七)頃には渚司・刀禰等を置いて、住民から在家地子を徴収するようになっていた(年月日未詳東大寺諸庄文書并絵図等目録)。長徳四年(九九八)の同寺の寺領目録(東大寺要録)猪名庄の項には庄田や野とともに浜二五〇町が記載されており、当地はこのうちに含まれている。

ところが、長渚浜の住人は検非違使庁からの庁役を忌避するため中央の権門貴族の散所となる手段を選んだことから、長渚散所が成立し、同散所を伝領した小野皇太后(藤原歓子、教通の娘)宮職が応徳元年(一〇八四)八月一〇日に京都賀茂御祖かもみおや(下鴨社)領の山城国愛宕おたぎ栗栖野くるすの(現京都市北区)の田地七町八段余と相博して同社領長渚御厨が成立するに及んで、同寺と賀茂社は利害対立を生じるようになった(嘉承元年五月二九日官宣旨)。寛治六年(一〇九二)同寺は賀茂社が寺領「長渚庄」を侵害したとして訴えを起こし(同年七月一〇日東大寺牒)、独自の庄号を有する庄園として位置づけ、以後、両者の間で長渚住民への支配権をめぐる争いが展開されていくことになるが(→長洲御厨、これをもって当庄の成立とすることはできない。大治二年(一一二七)一一月二〇日に同寺公文所が作成した勘状(案)においては同様に「長渚庄」とみえるが、翌三年七月に作成された東大寺庄園目録には、「猪名庄田四十五丁」に続いて「長洲浜在家」とみえ、同寺では賀茂社との相論を有利に進めるための手段として庄号を付すようになったと考えられる。

当地をめぐる争いは寛治年間(一〇八七―九四)の相論に続いて、康和―嘉承年間(一〇九九―一一〇八)にも行われ、御厨地は東大寺が領掌し、在家は賀茂社領とする裁決が下され一応の決着をみているが(前掲嘉承元年五月二九日官宣旨)、住民に対する支配強化を企図する同寺と、在家支配を媒介として領域的な支配を目指す賀茂社との対立はその後も続き、機会を捉えて提訴が繰返されていった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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