日本歴史地名大系 「猪名庄」の解説
猪名庄
いなのしよう
市域南東部に所在した奈良東大寺領庄園で、
天暦四年(九五〇)には庄田が八五町一段三四二歩に増大している(同年一一月二〇日「東大寺封戸庄園并寺用雑物目録」東南院文書)。天喜三年(一〇五五)には当庄の田堵秦成重が二年間に及び隠田をして地子を未進しており(同年九月一二日「猪名庄司等解」東大寺文書)、また凡河内是行や周辺の摂関家領の寄人とみられる村々の田堵が弁進を拒否している(同年一〇月一六日「僧善久解」同文書)。一方、当庄南端の海岸に形成された浜地は
康和二年(一一〇〇)に東大寺別当に就任した永観は、「本図」すなわち前掲天平勝宝八歳の図によって免を立てるよう奏聞して、実検使の派遣を実現させているが、下向した実検使が在庁官人らとともに、四至内を寺田とするよう言上したものの、国司は約半分の四五町しか認めなかったという(嘉承元年八月五日「官宣旨」東大寺文書)。また永観は当庄と
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報