猪名庄(読み)いなのしよう

日本歴史地名大系 「猪名庄」の解説

猪名庄
いなのしよう

市域南東部に所在した奈良東大寺領庄園で、神崎かんざき川河口の西岸に位置する。為奈庄とも記す。天平勝宝八歳(七五六)一二月一七日の摂津国河辺郡猪名所地図写(尼崎市教育委員会蔵)に「猪名所地」とみえ、同年六月一二日孝謙天皇によって同寺に施入され成立したという。同図は平安時代末期以降に作成された写であるが、東は入江、西と南は海で区切られ、北は口分田までとなっており、面積は四六町六段二二五歩で、宮宅所八段二〇歩のほか田地四五町八段二〇五歩があり、そのうち三七町六段二一二歩が墾田であった。また堤防水路とみられる二本の墨線が二重、三重に描かれており、中央北部付近から周辺部に向かって、築堤と堤防内部の排水によって海岸部の低湿地の開発が進められていった様子がうかがえる。

天暦四年(九五〇)には庄田が八五町一段三四二歩に増大している(同年一一月二〇日「東大寺封戸庄園并寺用雑物目録」東南院文書)。天喜三年(一〇五五)には当庄の田堵秦成重が二年間に及び隠田をして地子を未進しており(同年九月一二日「猪名庄司等解」東大寺文書)、また凡河内是行や周辺の摂関家領の寄人とみられる村々の田堵が弁進を拒否している(同年一〇月一六日「僧善久解」同文書)。一方、当庄南端の海岸に形成された浜地長渚ながす(のちに長洲)浜とよばれ、奈良時代頃から漁民を主とする集落が形成されるようになっていた(→長洲

康和二年(一一〇〇)東大寺別当に就任した永観は、「本図」すなわち前掲天平勝宝八歳の図によって免を立てるよう奏聞して、実検使の派遣を実現させているが、下向した実検使が在庁官人らとともに、四至内を寺田とするよう言上したものの、国司は約半分の四五町しか認めなかったという(嘉承元年八月五日「官宣旨」東大寺文書)。また永観は当庄と茜部あかなべ(現岐阜市)を学生供に施入して(東大寺別当次第)、支配の強化を図ろうとしている。さらに応徳元年(一〇八四)八月一〇日に行われた小野皇太后宮職と京都賀茂御祖かもみおや(下鴨社)との間の相博の取消しを求めたが(応保二年五月一日「官宣旨案」東南院文書)、嘉承元年(一一〇六)五月二九日に御厨地は東大寺が領掌し、在家は賀茂御祖社領とする官宣旨(東大寺文書)が下されている。元永元年(一一一八)には国司の濫妨を官に訴え、勅書絵図に記載されている野や浜、大小の江など四至内はすべて寺領と認められ(年欠「東大寺衆徒等目安案」同文書)、天治元年(一一二四)には絵図・官使注文などに任せて四至内の田畠等の免除を申請している(同年六月一九日「崇徳天皇宣旨案」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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