長浦村(読み)ながうらむら

日本歴史地名大系 「長浦村」の解説

長浦村
ながうらむら

[現在地名]琴海町長浦郷ながうらごう

現琴海町域の中央部北寄りに位置し、東部は入江(形上湾)に臨む。西部に長浦岳があり、北部を手崎てざき川が流れる。内海(大村湾)側の往還筋に一里山が置かれた(慶安二年肥前国道法帳)。永禄年間(一五五八―七〇)と推定される四月一日の大村純忠書状写(福田文書)に去る七日の長浦での合戦で勝利したことがみえ、同年と推定される四月一八日の有馬仙岩・同義直・同義純連署書状写(同文書)にも長浦とあり、有馬氏は前月七日の合戦で一瀬与介を手火矢によって討ち伏せたことなど福田兼次の功を賞しており、なお敵が現れた場合、この浦の住人が足を抜かないよう算段怠りなきことを促している。東部のしろつじ(標高一〇二・四メートルの地)中世の城館に関連するという。江戸時代は大村領の内海うちめに属し、慶長高帳では蔵入地となっている。慶長一〇年(一六〇五)の大村領内高目録(大村見聞集)に長浦村とみえ、高三四六石余で、田二九町余・畠四町、物成一九〇石余。同一七年の総検地では高五五一石余を打出すが(同一八年彼杵郡内検高目録)朱印高は三四六石余とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)。慶長国絵図では長浦として高三四六石余。正保郷帳(大村見聞集)では戸根とね村と合せ高三四六石余で、当村は田一六五石余・畠一九石余。寛文四年(一六六四)の大村純長領知目録(寛文朱印留)でも長浦村とある。


長浦村
ながうらむら

[現在地名]中島町長浦・鹿島台かしまだい

七尾北湾と西湾を結ぶさんぐち瀬戸を隔てて能登島(現能登島町)と相対する。南は瀬嵐せあらし村、高毛たかも大在所おおざいしよなどの垣内がある。元和一〇年(一六二四)の本浄寺惣門徒連判起請文(本浄寺文書)に村名がみえる。正保郷帳によると高一八七石余、田方七町一反余・畑方五町三反余。承応二年(一六五三)の役棟一一(「棟役調」鹿島郡誌)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一九八石、免四ツ、小物成は山役一九七匁、鳥役一匁(出来)、猟船櫂役四五匁(ほか二七匁退転)、網役七一匁・串海鼠役二九匁、外海船役六三匁(退転)、釣役六匁(三箇国高物成帳)


長浦村
ながうらむら

[現在地名]横須賀市長浦町一―五丁目・田浦港たうらみなと町・箱崎はこざき

西は田浦村、東と北に江戸湾を望む小半島部にあり、長浦湾とくすうら湾に挟まれる。浦郷うらのごう村・田浦村と同様に湊として栄え、漁業および近くの山より薪木を伐出し江戸へ廻送していた。嘉永七年(一八五四)村内の半島部字元屋敷もとやしきを掘割りし、武蔵国野島のじま(現横浜市金沢区)より横須賀村への航路が作られた(「新船路開通諸願向控帳」県史九)。両村同様新田開発が近世中期に進行した。天保初期の家数一〇九(風土記稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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