田浦村(読み)たのうらむら

日本歴史地名大系 「田浦村」の解説

田浦村
たのうらむら

[現在地名]田浦町田浦

赤松太郎あかまつたろう峠の南西、田浦川が八代海に流れ出る所に形成された小平野に位置する。西に田浦湾を擁して、平地の少ない葦北地方では古くから要地とされた。貞和―観応年間(一三四五―五二)頃と思われる年未詳一二月一一日の少弐頼尚書状(相良家文書)に「葦北庄田浦凶徒等事」とある。「八代日記」によれば、大永七年(一五二七)相良氏の内紛により、人吉ひとよし・八代を追われた長定が津奈木つなぎ(現津奈木町)に在城し、それに与同した田浦氏(檜前氏)は当地にあって相良義滋の軍を迎えることになった。軍は八月二二日「求麻・八代より田浦ニ動」き、田浦三郎左衛門尉は討死したがかろうじて持ちこたえた。


田浦村
たうらむら

[現在地名]鰺ヶ沢町舞戸まいど

北は日本海に面し、南はたて村、東は南浮田みなみうきた村、西は舞戸村に接する。

天和三年(一六八三)の御代官所村家人数之帳(八木橋文庫蔵)に新田として坂本さかもと村がみえ、貞享検地で坂元村を田浦村に改めたという(津軽平野開拓史)。貞享四年(一六八七)検地帳に村高一七〇・九一六石、うち田方一五一・一九石、畑方一九・七二六石、漆木二二一本、除地として稲荷社地がある。元禄三年(一六九〇)には赤石組に属し、村位は中とある(平山日記)


田浦村
たのうらむら

[現在地名]小松島市田浦町たうらちよう

前原まえばら村の南に位置し、西部を勝浦かつうら川が北流する。永正六年(一五〇九)一二月六日の宍草治之寄進状(丈六寺文書)に「勝浦庄田浦」とみえ、吉田よしだ山が勝浦川対岸の慈雲院丈六じようろく(現徳島市)に寄進されている。同山は同寺の裏山に比定されるが、同寺が「田浦之郷」にあったというのも(丈六寺蔵懸板銘文)、かつて当地が勝浦川両岸にわたる範囲であったことによるのであろう。地内に鹿草彦太郎末孫の宍草出羽守を主将とする田浦城があり、天正年間(一五七三―九二)に断絶したと伝える(城跡記)


田浦村
たのうらむら

[現在地名]内海町田浦

田浦半島の先端に位置し、北は堀越ほりこし村と接する。近世草加部くさかべ郷の枝村。伝承ではかつては「田浦千軒」といわれるほど多くの人家があったという。明応九年(一五〇〇)正月の利貞名外田畠塩浜等日記(赤松家文書)には田浦の為久、あるいは又吉名・桐谷きりたになどの地名がみえ、「又吉名から申年には白米一升五合とさしなわ一すぢ桐谷之かもん三郎ニもたせ候て給候 八月十三日」などとあり、草加部八幡宮祭礼に当地からの奉納に関する記述とみられる。


田浦村
たうらむら

[現在地名]横須賀市田浦町一―六丁目・田浦泉たうらいずみ町・田浦大作たうらおおさく

北方の浦郷うらのごう村・船越ふなこし新田に接する海沿いの村。悲母因縁奥書(県史二)に、元亨三年(一三二三)九月一五日の日付で「タウラニテ為禅日□祖父」とあり、禅日はのち称名しようみよう(現横浜市金沢区)の住持となる湛睿と親交のあった僧である。小田原衆所領役帳に菅谷源次郎「四拾貫弐百六拾八文 田浦」とある。

近世には新田開発が盛んで、船越新田を分村したが、それ以外にも六〇石以上の打出しがあり、とくに中期の開発が多い。天保初期の家数七八(風土記稿)


田浦村
たのうらむら

[現在地名]佐賀関町一尺屋いつしやくや 田ノ浦

白木しらき村の南に位置し、東は豊後水道に臨み、西は樅木もみのき山に続く山地、南は一尺屋村。天文二二年(一五五三)九月二〇日の佐賀郷関公領地検帳(早吸日女神社文書)に「田のうら分田数之事」として本田数七段余・見上相加一町五段余・畑地二段、屋敷四ヵ所があげられている。その後もせき(早吸日女神社)への年貢上納は続けられており、元亀二年(一五七一)一〇月五日の関宮御公領廿五貫分御所務帳(関伊平文書)には「田之浦分」の分米計六斗余とあり、天正一五年(一五八七)一一月一五日の関宮御公領地検帳(同文書)には「田ノ浦分」として四名の田地と屋敷をあげている。


田浦村
たのうらむら

[現在地名]大分市神崎かんざき 田の浦

白木しらき村の西に続き北は海。高崎たかさき(六二八・四メートル)の東麓から南麓に位置する。由原ゆすはら八幡宮参詣道と分れて西に進んだ豊前道が通り、高崎山南麓のじようこしに「府中より弐里」の道標が建つ。同山の北斜面は海に落込んでおり、海岸沿いに西の浜脇はまわき(現別府市)に行くことはほとんど不可能であった。「豊後国志」に「古道田浦至浜脇、路依山下海岸最近、今不可行、故山腹架桟而渉、尤艱険」とあり、「豊後国古城蹟并海陸路程」には「同城下より西ノ方、筑紫主水頭領分浜沖迄船路弐里拾町、此間ニ高崎と云山有、此浦づたひ船がゝり悪し、府内より此山之麓磯道弐里之間は、牛馬之通有、山之上、又浜沖迄は、牛馬之通なし」とある。


田浦村
たのうらむら

[現在地名]吉海町田浦

大島の北西端にある三角形の村。西岸の中央部は緩い湾入をもつ田浦港で、北部と南部は急崖となっている。東は早川はやかわ(現宮窪町)、南はとまり村に接する。全村急傾斜地で人家は斜面に点在する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)越智郡の項に「田浦村 日損所、野山有、林有」とみえ、村高は三五石である。寛永一三年(一六三六)の田浦村検地帳では、田畑は山畑を加えてもわずかに五町三反である。貞享元年(一六八四)の今治藩御改革領内調書でも四町一反で、水害や山崩れなども多く、地味悪く農業には不向きの地であり、出稼や採石の手伝いなどでようやく生計を立てていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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