長瀬村(読み)ながせむら

日本歴史地名大系 「長瀬村」の解説

長瀬村
ながせむら

[現在地名]羽合町長瀬

天神川の河口右岸に位置し、北東は橋津はしづ村、南西は田後たじり村。北条ほうじよう砂丘の東端にあたり、集落は羽合平野に面する砂丘上に形成された。伯耆街道の宿駅で、南方の清谷せいだに村・福庭ふくば(現倉吉市)を経て倉吉町に至る道(倉吉往来)を分岐。また当村西端に天神川の渡船場があり、江北えきた(現北条町)と結ばれていた。正嘉二年(一二五八)一一月に作成された東郷庄下地中分絵図に「北条内長瀬村」とみえ、当地の南を東流した天神川(現船川の流路に近い)は大きく曲がり北流、東郷池から流れ出す現橋津川に注いでいる。なお天神川は寛文年間(一六六一―七三)鳥取藩の郡代由宇勘平により改修され、長瀬へ入る流路を変更、直流して江北浜から日本海に注ぐこととなった。元亀二年(一五七一)七月、吉川元春は尼子方の山中幸盛の立籠る末吉すえよし(現大山町)攻撃に当たっていた山田重正らを支援のため、尾高おだか(現米子市)を経て、二〇日に当地に陣を進めている(同月一九日「吉川元春書状」閥閲録)

藩政期の拝領高一千五四八石余。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によれば高一千九一五石余、うち畑高二〇一石余(うち大豆免九四石余)。免五ツ八分、橋津御蔵納。悪田加損米一〇石。海役銀三〇匁・川役銀五五匁。棟数二九軒・役高五八〇人。産土神一宝大明神、一向宗勝福しようふく寺がある。天神川渡給九石余、宿馬一一。男四五〇・女三九一、ほかに医者二・禅門七。御札場で大塚おおつか(現東伯町)まで三里一一町・駄賃一匁九分、松崎まつざき(現東郷町)へ二里・駄賃一匁、とまり(現泊村)へ二里一一町・駄賃一匁二分、穴鴨あながも(現三朝町)へ五里・駄賃二匁五分、橋津村へ一四町。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]多治見市長瀬町・本町ほんまち上山町かみやまちようみどりおか弁天町べんてんちよう小田町おだまち大正町たいしようまち宮前町みやまえちよう大日町だいにちちよう虎渓町こけいちよう豊岡町とよおかちよう上野町うえのちよう虎渓山町こけいざんちよう精華町せいかまち十九田町じくだちよう住吉町すみよしちよう白山町はくさんちようあさひおか金岡町かなおかちようひかりおか明和町めいわちよう若松町わかまつちよう

虎渓山一帯にあり、東から南へ土岐川が大きく湾曲して流れる。土岐川の南は多治見村。東端を高田たかた川が南流して土岐川に合流する。土岐川の河岸段丘上の上山遺跡からは縄文中期の深鉢形土器・石鏃・打製石斧・石錘などが出土し、虎渓山一帯には六世紀から七世紀にかけての古墳が散在する。北部の長瀬山南麓には平安期の窖窯があり、一一世紀前半に白瓷の生産が行われていた。

中世には池田いけだ御厨のうちで、元徳二年(一三三〇)一二月晦日の沙弥道任売券(永保寺文書)に「池田御厨内長瀬郷山」とみえる。道任(源頼氏)は重代相伝の所領の同所を四至を限って銭一〇貫文で永保えいほう寺に売却している。観応二年(一三五一)一二月二〇日には源貞衡から長瀬郷内次男分浮免田三反(国貞名内)と山在所水入沢が同寺に寄せられた(「源貞衡寄進状」同文書)


長瀬村
ながせむら

[現在地名]智頭町埴師はにし

三明みあけ村の南、土師はじ川に天木あまぎ川が合流する辺りを占め、散在する集落のいくつかは天木川が形成した扇状地上に位置する。集落の東方には穂見ほのみ山がそびえる。元禄国絵図・元禄郷帳作成時までにそれまで枝村であった三明村を分村した(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。「因幡志」では枝村として興伝寺こうでんじ栗原くりはら石田いしだ四反田したんだ田中たなか・ボウカ・さぎ杵台きねだいの八ヵ所をあげる。備前街道が石田を通る。拝領高は三一七石余。宮脇氏の給地があった(給人所付帳)。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高二七〇石余、毛付高二八七石余、本免六ツ三分、同年の物成高一六六石余、ほかに川役米一斗五升・藪役銀四匁一分が課されていた。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]名張市長瀬・上長瀬かみながせ中知山なかちやま・つつじが丘南おかみなみ五番町・同八番町・つつじが丘北おかきた一番町

名張郡の東南端、布生ふのう村の東に位置する。太郎たろう(名張川)の渓流に沿う細長い山村。伊勢神宮の六箇むこ山神領地と伝えるが(三国地志)夏見なつみ郷刀禰らが名張郡の大神宮所領地と山川四至等を国郡司に注進した承平四年(九三四)一二月一九日の伊賀国夏見郷刀禰解案(光明寺古文書)に、その名を見いだせない。しかし神領地四至内一二村のなかで現在地不明の「針生」は、榛の生い茂る地の意で、榛は好んで水辺に生ずる木であるから、針(榛)生は川辺の村、すなわち長瀬であると推定される。長い間続いた六箇山神領地としての神宮との関係は天正九年(一五八一)織田信長の伊賀攻略によって断ち切られた。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]伊豆長岡町長瀬

狩野かの川の支流長瀬川に沿った谷間の村。東は小坂おさか村、南・西は静浦しずうら山地を西浦にしうら路が三津みと坂で越えて三津村(現沼津市)へ通じていた。延宝五年(一六七七)の「伊豆鏡」では高一五一石余。元禄初年高帳によると新田高一石七斗余。元禄三年(一六九〇)三島代官五味小左衛門によって検地が行われ、田方八町四反余・畑方屋敷五町八反余・山畑六反余・屋敷二反余(「長瀬村検地帳」内田家文書)。その後新田が増加し天保九年(一八三八)には総反別一五町三反余(「高反別盛家数人別書上帳」同文書)


長瀬村
ながせむら

[現在地名]田辺市長野ながの

上三栖かみみす村の北方、三栖川(現左会津川)の上流域に位置、まき山の山麓から中腹にかけての農山村。村内を潮見しおみ峠越の熊野街道中辺路が通り、峠に至る約一六町の坂を潮見坂また長尾ながお坂とよぶ。「為房卿記」永保元年(一〇八一)一〇月一日条にみえる「那賀庄」は、当地辺りをさすとする考えがあるが不詳。また「親玄僧正日記」正応六年(一二九三)七月九日条に載せる御教書に「紀伊国長尾郷」がみえ、当地に長尾の地名があることから当地に比定する説があるが確かではない。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]丸子町大字長瀬

依田窪よだくぼの北部で、依田川東岸一帯の村。南は下丸子しもまるこ村、北は石井いしい村、東は藤原田ふじわらだ村、西は依田川対岸の飯沼いいぬま村と境をなす。長瀬のほか金井かない練合ねりあいの枝郷がある。

村の西を流れる依田川対岸にある依田城は、鎌倉時代初期からの豪族長瀬氏の本拠で、長瀬氏は木曾義仲が兵を挙げたとき、後ろ楯として力があった。永正三年(一五〇六)下諏訪春秋両宮御造宮帳(諏訪大社上社文書)に「下諏方春宮二之御柱造宮次第」として「同庄長瀬之郷合籾廿八俵三升此代五貫六百卅文」とみえる。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]河原町長瀬

河原村の西に位置し、「因幡志」は支村として下谷しもだに・小谷・岡中井・奥長瀬を記す。正安四年(一三〇二)三月二〇日の継誉所領譲状案(摂津勝尾寺文書)に「なかせ」など四ヵ村の名がみえ、内大臣法眼継誉から盛俊僧都に譲られている。慶長一〇年(一六〇五)の気多郡高草郡郷帳に高草たかくさ郡のうちとして布袋ほていなどとともに長瀬がみえ、亀井茲矩領であった。藩政期の拝領高四〇八石余、本免五ツ九分。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]美濃市長瀬

板取いたどり川下流域に位置する山方の村。左岸の山麓から河岸に集落があり、右岸は山のみ。牧谷まきだに八郷の一つで、東は安毛あたげ村・立花たちばな村。慶長郷帳に村名がみえ、村高一五五石余、紙舟役一七匁五分、山年貢一石余。元和五年(一六一九)幕府領から尾張藩領となり、幕末に至る。正保郷帳では田高三石余・畑高一五二石余・紙舟役二石・山年貢二石。明暦覚書によれば概高二三五石余、人数三三七、馬二四。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]佐伯市稲垣いながき 長瀬・城南町じようなんまち

古市ふるいち村の東、番匠ばんじよう川右岸沿いに位置。天正一四年(一五八六)一一月、栂牟礼とがむれ城を襲った島津軍は堅田かたたに入り、長瀬原などで佐伯惟定勢と戦い敗走した(大友家文書録)。集落はもと番匠川左岸の佐伯城下南東端(現城南町付近)の低地にあったが、水害常襲地帯であったため移転を願出て、享保一四年(一七二九)藤原ふじわら天神津留てんじんづるに移転。同地も水害地のため同一七年現在地に移転したという(鶴藩略史)。慶長一〇年(一六〇五)の検地目録帳(佐伯藩政史料)に「久部・長瀬村」とみえ、高六六六石余。同一六年の鶴屋組差出帳(同史料)に同組の構成村として長瀬村とみえ、高一四〇石余。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]村岡町長瀬

はら村の北東にあり、集落は矢田やだ川の左岸に発達する。北東はさかい村、東は山田やまだ村。本村の北東方に離れて楠見くすみ山田口やまだぐち、東方やや北寄に知見ちみの集落がある。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「なかせ村」とみえ、当地には二郎兵衛殿・「なかせうた殿」などが住していた。慶長六年(一六〇一)の山名豊国知行目録(池田家文書)に村名があり、高一三五石。寛永一六年(一六三九)の知高帳、正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図でも高は同じ。天保郷帳では高七二石余。天保郷帳で村高が激減しているのは、前掲の知行目録・知高帳・国絵図の当村の村高が、これらの史料に記載のない境村の高を含んでいたため、あるいは天保郷帳で高が急増した隣村山田村との間で村切の変更があったためなどの事由が推定されるが、確証はない。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]白川村長瀬

しよう川沿いにあったが、白川街道は対岸を通っているため橋と籠渡で同街道に通じた。渡しはまき村の野首のくびと当村温泉ぬくみ(貫見)との間にあった。村域は川沿いに細長く延び、川上から秋町あきまち・温泉・長瀬・稗田ひえたに集落が点在し、その間川瀬が長く続くことに村名は由来するという(斐太後風土記)。元禄飛騨国検地反歩帳に村名がみえ、高二七石余、田一町八反余・畑六町六反余。「飛騨国中案内」によれば免は三割五毛、家数一四、うち寺一・百姓一二・家抱一。天明八年(一七八八)の田九石余・畑八石余、反別田一町九反余・畑六町四反余、焼畑高一斗余・反別一反余。家数一二・人数一六三、馬六・牛一一、猟師鉄砲三、浄楽じようらく(村明細帳)


長瀬村
ながせむら

[現在地名]黒滝村大字長瀬

黒滝川と笠木かさぎ川の合流地から黒滝川の曲流地にかけて両岸に開けた村。天保一四年(一八四三)の古図によると、西から下平しもだいら中平なかだいら堂阪どうさか日裏ひうら・おうじの集落(現小字)があった。黒滝郷のうち。慶長郷帳では村高六五・八三四石、幕府領(代官大久保長安)延宝検地により村高は一一六・〇五八石と約二倍に増した。宝暦一〇年(一七六〇)の村明細帳(長瀬区有文書)では家数二六、人口一二一(男六九、女五二)、安永一〇年(一七八一)の浄土真宗御改帳(同文書)では二九軒、一五〇人(男七一、女七九)、享和四年(一八〇四)には二五軒、一二三人とみえる。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]室生村大字三本松さんぼんまつ

宇陀川沿岸の村。川下にあたる東方は伊賀国(現名張市)。慶長郷帳にみる村高六六九・二四石で幕府領(代官大久保長安)。元和五年(一六一九)津藩(藤堂高虎)領となる。元禄郷帳には長瀬村(一五一・二四四石)のほか、枝郷としてなか(一〇〇・九五五石)髭無ひげなし(一〇二・三九石)かみ(一五六・五〇七石)古大野ふろうの(一五八・五四四石)に分立する。また享和三年(一八〇三)の郷帳では長瀬村を長瀬下村と記す。しかし天保郷帳では長瀬村のみを記し、「古ハ長瀬村・中村・髭無村・上村・古大野村、五ケ村」と注記する。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]小坂町長瀬

小坂町おさかまち村の南東にあり、小坂川を挟んで北岸の味屋あじや・長瀬・松原まつばら、南岸の古子ふるこの四集落からなる。元禄八年(一六九五)の検地帳(小坂町教育委員会蔵)では高七〇石余、田三町一反余・畑五町余。安永三年(一七七四)の地改帳(同委員会蔵)では高七一石余。「飛騨国中案内」によれば免四割八分四厘、家数四五、うち百姓三八・門屋七。「斐太後風土記」では高九八石余、家数五一・人数三二五。字森脇もりわきの長瀬神社は古くは八幡大神で明徳元年(一三九〇)の建立、のち神明宮となり享保一六年(一七三一)再建されたという(社蔵棟札)


長瀬村
ながせむら

[現在地名]姶良町永瀬ながせ

南東流する蒲生かもう川の左岸沿いに位置し、東は増田ますだ村。永世・永瀬とも記される。建治二年(一二七六)八月日の石築地役配符写(調所氏家譜)によると、帖佐西ちようささい郷の公田一四三町五段のうちに「永世七丁七反小」とみえ、貢進田五段を除いた定田七町二段小に石築地役が課され、七尺四寸を負担した。領主は越前検校覚禅。弘安年間(一二七八―八八)頃の守公神侍畳図写(同家譜)によると、永世は小畳三帖を負担している。鎌倉時代後期の豊前宇佐弥勒寺との関係は餅田もちだ村と同じ。康安元年(一三六一)七月日の正八幡宮領帖佐村供田坪付注文(旧記雑録)に「なかを五反」とみえるが、これは「なかせ」の誤記であろう。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]佐賀市高木瀬町たかきせまち大字長瀬

多布施たふせ川の東にあり、平尾ひらお村の西に位置する水田地域。元徳二年(一三三〇)五月の北条英時の鎮西下知状(河上神社文書)によれば、河上神社に対する長瀬孫太郎の「大般若免田五段」の「神用物銭段別百文」の未納について弁済の下知が行われているが、これは長瀬の地名がこれ以前に成立していたことを物語る。

肥前刀「肥前忠吉」の刀鍛冶は慶長年間(一五九六―一六一五)に城下の長瀬町に移住する以前この村に住んでいたと伝えられ、城下の長瀬町の町名もこの村名に由来するといわれる。忠吉系統の刀鍛冶は弘安年間(一二七八―八八)に長瀬村に住んだといわれ、古くは朝鮮半島からの渡来者で太宰府に住んでいたとも伝えられる。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]和知町字長瀬

大迫おおさこ村の東に位置し、由良川両岸を占める。村内を由良川右岸沿いに桑田郡に至る道が通り、北の塩谷しおたに村に通じる道もある。東は桑田郡(現北桑田郡美山町)、南はおく村。園部藩領。

村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳では二九石余であったが、天保郷帳では八〇石弱と三倍近くになった。幕末の家数は三〇、人口一四一(「口丹波風土記」所引園部藩記録)

当村の由良川南岸部分はすべて山地で、かや山とよぶ山の頂に一部くぼんだ部分があって池の面影を残し、じやヶ池といわれる。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]毛呂山町長瀬

毛呂本郷もろほんごうの南東、越辺おつぺ川支流大谷木おおやぎ川中流域の台地上に立地。近世初期には毛呂村に含まれていたが、その後同村が分立して成立。元禄郷帳に「毛呂長瀬村」とみえ、高三〇五石余。国立史料館本元禄郷帳によると旗本久貝領・福正ふくしよう寺領。永禄三年(一五六〇)と推定される九月一五日付の太田資正感状写(武州文書)に「長瀬」とみえ、平岡孫六の長瀬での戦功を賞しているが、これは当地のことか。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]大山町長瀬

熊野くまの川上流、両岸に急峻な山が迫り、わずかな川沿いの平坦地に集落が開ける。南は手出ていで村、北は西小俣にしおまた村、西は山を越えて小谷おたに村。地名は熊野川が岩石が重なりあった狭い渓流となっているところからつけられたという(大山町史)。正保郷帳の高一〇五石余、田方四町・畑方三町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一二七石、免三ツ三歩、小物成は山役一六六匁・炭役二〇匁・鮎川役五匁、炭竈役一三匁(出来)とある(三箇国高物成帳)


長瀬村
ながせむら

[現在地名]海津町長瀬

こま村の南、長良川右岸に立地し、西は立野たての村、南東は日原ひわら村。天正一〇年(一五八二)一二月晦日の吉村氏吉宛織田信雄宛行状(吉村文書)裏書に新知分として「なかせ半分」とみえる。慶長郷帳に村名がみえ、高三七〇石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]大塔村長瀬

東は伏菟野ふどの村、西は九川くがわ村、南は竹垣内たけのがいと(現日置川町)に接する。日置ひき川の支流まえノ川に沿う山間集落。「続風土記」に「前川の瀬に因りて起るなり」と記される。


長瀬村
ながせむら

[現在地名]豊橋市長瀬町

おお村の北東にあり、現在は豊川本流と豊川放水路の分岐点にあたる。三河国吉田領人馬役割帳(島原市本光寺蔵)に載る慶長九年(一六〇四)の検地高は二七六石余。


長瀬村
ながせむら

高来たかく郡にあった中世の郷村。建武五年(一三三八)二月九日の一色道猷宛行状(深堀文書)に「長瀬村田中」とみえ、当所内の時津四郎五郎入道跡の田四町の地頭職などが勲功賞として深堀政綱に宛行われ、同年三月には沙汰付けが命じられた(同年三月一七日「小俣道剰施行状」同文書など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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