長興寺村(読み)ちようこうじむら

日本歴史地名大系 「長興寺村」の解説

長興寺村
ちようこうじむら

[現在地名]豊中市長興寺北ちようこうじきた一―三丁目・長興寺南ちようこうじみなみ一―四丁目

福井ふくい村の北、千里丘陵と豊中台地の間を流れる天竺てんじく川が低地に移る谷入口に位置する。村名の由来である長興寺は文治五年(一一八九)三月の春日社領垂水西牧榎坂郷田畠取帳(今西家文書)にみえる。寺院は中世を通じて存在したと思われるが、廃絶の時期は不明。

〔中世〕

近衛家を本所、奈良春日社を領家とする垂水西たるみのにし牧の南郷に属し、北部の桜井さくらい郷と南部の榎坂えさか郷の中間にあたる天竺川中流右岸の台地に位置した。前掲文治五年の榎坂郷田畠取帳の穂積ほづみ村一一条五里六坪(近世の曾根村に属し、現曾根東町一帯)に「二段三百歩 村寺長興寺、利倉領也」とみえ、同坪のうち残る七反弱が安楽寿院領利倉とくら庄領で村寺の長興寺がその名主職を所有していたと考えられる。なお、同寺が錯綜して榎坂郷に所有した田積は、応永八年(一四〇一)では四町三反弱である(同年七月日「春日社領垂水西牧田数帳」今西家文書)

当地では文永三年(一二六六)に茂忠法師が春日社神人を刃傷する事件があった(→垂水西牧。事件の原因は不明であるが、与同する住人がいたことや在地神人の不参加からみて、春日社・興福寺側の支配強化に反発する在地住人の悪党行為と考えられる。次いで文永九年四月、興福寺側から長興寺の作麦に神木を奉祝するように神人下向の申入れがあり、春日社は一五人の神人を発向させたが、六月にその神木が汚穢された(「中臣祐賢記」四月一九日・同二七日・六月四日条)


長興寺村
ちようこうじむら

[現在地名]九戸村長興寺

小倉こぐら岳の北東麓に位置し、瀬月内せつきない川の中流を占める。もと九戸氏の本拠地で、大名だいみよう館跡はその居館と伝えられる。永正年間(一五〇四―二一)に九戸信仲が恵善を開山として長興寺を創建したとされ、村名は同寺に由来するという。それ以前は九戸村と称したとの伝承がある。これは九戸・四門の制において、当地一帯が九戸にあたるとされたことによるものであろうか。九戸政実は永禄一二年(一五六九)頃に本拠を九戸城(現二戸市)に移したといわれる。晴山はれやま観音林かんのんばやし(現軽米町)から葛巻くずまき(現岩手郡葛巻町)に至る街道が南北に通り、奥州街道の福岡ふくおか(現二戸市)へ至る道を分岐する。


長興寺村
ちようこうじむら

[現在地名]豊田市長興寺・平山ひらやま町・秋葉あきば町・竜宮りゆうぐう

東は矢作川沿いに平坦で水田が多く、西は平坦で耕地があり、南は山林原野をなし、北は低地で水田が多い。根川ねがわ六ヶ村のなかでは最も大きな村で、「七州城沿革小史」に「安永川村内ノ耕地ヲ西南隅ヨリ東南隅ヘ斜流シ矢作川満水スレハ野見村所属堤防溢シ安永川堤防損シ之レカ為メ水害ヲ被ラサル年殆ント稀ナリ」という地であった。先土器時代の長興寺遺跡、縄文時代の森下遺跡のほか供膳寺古墳・岡田塚古墳がある。秋葉町には月面塚古墳・内山第一―四号墳・高根第一―六号墳・秋葉山第一―五号墳・根義鐘南北古墳がある。平山町には平山古墳・長田南古墳がある。

寛延二年(一七四九)内藤氏入部時に本多氏から引継がれた史料(七州城沿革小史)によれば「長興寺村山ニテ石切運上壱ケ年ニ金壱両二分為相納但其年之分毎暮為納候」「長興寺村之内山林山室村高根村ハ先年本多長門守所替以後ヨリ立林ニ申付公儀郷村高帳ヘ書上ケ申候」の条項がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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