日本歴史地名大系 「長興寺村」の解説
長興寺村
ちようこうじむら
- 大阪府:豊中市
- 長興寺村
〔中世〕
近衛家を本所、奈良春日社を領家とする
当地では文永三年(一二六六)に茂忠法師が春日社神人を刃傷する事件があった(→垂水西牧)。事件の原因は不明であるが、与同する住人がいたことや在地神人の不参加からみて、春日社・興福寺側の支配強化に反発する在地住人の悪党行為と考えられる。次いで文永九年四月、興福寺側から長興寺の作麦に神木を奉祝するように神人下向の申入れがあり、春日社は一五人の神人を発向させたが、六月にその神木が汚穢された(「中臣祐賢記」四月一九日・同二七日・六月四日条)。
長興寺村
ちようこうじむら
長興寺村
ちようこうじむら
- 愛知県:豊田市
- 長興寺村
東は矢作川沿いに平坦で水田が多く、西は平坦で耕地があり、南は山林原野をなし、北は低地で水田が多い。
寛延二年(一七四九)内藤氏入部時に本多氏から引継がれた史料(七州城沿革小史)によれば「長興寺村山ニテ石切運上壱ケ年ニ金壱両二分為相納但其年之分毎暮為納候」「長興寺村之内山林山室村高根村ハ先年本多長門守所替以後ヨリ立林ニ申付公儀郷村高帳ヘ書上ケ申候」の条項がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報