日本大百科全書(ニッポニカ) 「長谷川滋利」の意味・わかりやすい解説
長谷川滋利
はせがわしげとし
(1968― )
プロ野球選手(右投右打)。オリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)、大リーグ(メジャー・リーグ)のアナハイム・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)、シアトル・マリナーズで投手としてプレー。大リーグでは、おもに救援投手として活躍した。
8月1日、兵庫県に生まれる。立命館大から1991年(平成3)、ドラフト1位でオリックスへ入団。1年目は、28試合の登板で11回も完投を記録し、12勝9敗1セーブ、防御率3.55の好成績で新人王となった。1992年は6勝8敗と負け越したが、1993年から3年連続して2桁(けた)勝利をあげて1995年のリーグ優勝に貢献した。1996年は故障で4勝6敗と低迷。そのオフに、球団も了承しての大リーグへの移籍が認められ、エンゼルスと契約した。1997年、当初は先発として起用されていたが結果を残せず、途中から救援に転向した。この年は3勝7敗だったが、ほぼ救援専任となった1998年からは安定した投球を続けるようになった。2000年には10勝6敗、防御率3.57、さらにシーズン途中で抑えのトロイ・パーシバルが故障したために代役を務め、9セーブをマークした。2001年は故障に苦しんだが、そのオフにFA(フリーエージェント)となって、マリナーズに移籍、佐々木主浩(かづひろ)、イチローと同チームとなった。2002年は8勝3敗1セーブ、防御率3.20と好投。しかし、マリナーズはプレーオフには進出できず、逆に古巣エンゼルスがワールド・シリーズを制した。2003年は持ち前の頭脳的な投球がさえわたり、貴重な中継ぎ、抑え役として活躍。63試合に登板、2勝4敗と負け越しはしたが、防御率1.48の成績を残し、自己最多の16セーブをあげた。シカゴで行われたオールスター・ゲームにも松井秀喜(ひでき)とともに初出場を果たした。2004年は自己最多の68試合に登板したが、球威不足から打たれるケースが目だち、2005年もわずかに1勝(3敗)をマークしただけで、オフに現役引退を発表した。
日本での6年間の通算成績は、登板試合142、投球回903、57勝45敗、防御率3.33、奪三振515、完投43、完封13。獲得したタイトルは、新人王。大リーグでの9年間の通算成績は、登板試合517、投球回720と3分の1、45勝44敗、セーブ33、防御率3.71、奪三振447、完投0、完封0。
[山下 健]
『長谷川滋利著『適者生存 長谷川滋利メジャーリーグへの挑戦1997-2000』(2000・ぴあ)』▽『長谷川滋利著『メジャーリーグで覚えた僕の英語勉強法』(2001・幻冬舎)』▽『長谷川滋利著『チャンスに勝つピンチで負けない自分管理術』(2002・幻冬舎)』▽『長谷川滋利著『不可能を可能にすること 僕のメジャーリーグ日記』(2003・幻冬舎)』