精選版 日本国語大辞典 「関ケ原の戦い」の意味・読み・例文・類語 せきがはら【関ケ原】 の 戦(たたか)い [ 一 ] 慶長五年(一六〇〇)九月一五日美濃関ケ原で、徳川家康の東軍と石田三成を中心とする西軍とが天下を争った戦い。東軍が大勝し、その結果豊臣秀頼は摂津・河内・和泉六五万石の大名に転落し、徳川氏の政権が確立。関ケ原の役。[ 二 ] ( 比喩的に ) 天下分け目の戦い。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
旺文社日本史事典 三訂版 「関ケ原の戦い」の解説 関ケ原の戦いせきがはらのたたかい 1600(慶長5)年,美濃関ケ原で行われた徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)の“天下分け目の戦い”1598年の豊臣秀吉の死後,天下の声望は五大老の一人家康に帰し,実権を握りつつあった。五奉行の一人三成らは家康を除こうとし,五大老の一人上杉景勝が会津若松に挙兵。石田・島津・毛利らは大垣から関ケ原に向かう途中東軍と衝突し,激戦の末敗北。三成・小西行長らは処刑され,豊臣秀頼は一大名に転落,徳川氏の覇権が確立した。 出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報