関兼衡(読み)せき・かねひら

朝日日本歴史人物事典 「関兼衡」の解説

関兼衡

没年:元暦1.8.10(1184.9.16)
生年:生年不詳
平安末期の武士桓武平氏。治承寿永の内乱に父の出羽前司信兼に従い,平家方で活躍。平家西走後も伊勢・伊賀国などで源氏に対して抵抗を続けたらしい。元暦1(1184)年6月に伊賀国で富田家助ら平家与党の武士が蜂起した際は,弟信衡・兼時と共に指導的な役割を果たした。守護大内惟義は苦戦のすえこれを鎮圧するが,兼衡らは惟義の追っ手を逃れた。その後は京都に潜んでいたが,源義経によって討たれた。なお,治承4(1180)年8月源頼朝が伊豆で挙兵した当初に討ち滅ぼした伊豆国目代山木兼隆は兼衡の兄弟

(菅野文夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「関兼衡」の解説

関兼衡 せき-かねひら

?-1184 平安時代後期の武士。
平信兼(のぶかね)の長男。伊勢(いせ)平氏一族。平家一門が西国にのがれた後,元暦(げんりゃく)元年伊勢・伊賀(いが)に挙兵したが敗れた。弟信衡(のぶひら)らとともに京都に潜伏したが,同年8月10日源義経(よしつね)に討たれた。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例