古代において,東国の語は早くから用いられたが,日本列島内の地域名称としての西国の語はほとんど使用されていない。西国はむしろ,日本から見て西方の国,朝鮮半島の新羅やインド(天竺(てんじく))をさす言葉であった。畿内を基盤として成立した畿内政権,その発展である律令国家にとって,東日本はみずからと異質な地域と強く意識されていたが,西日本はこの国家の成立するまでにさまざまな交流のあった地域で,西方の異質な地域をさす西国の語は,おのずと日本列島の外の国について用いられることになったものと思われる。
その間にあって,九州は長期にわたり畿内の勢力に対抗した政治勢力のあった地域であり,《日本書紀》天武天皇5年(676)4月14日条に,東国に対して西国とあるのを,石井良助は西海道=九州と解している。事実,743年(天平15)大宰府に代えて一時的に鎮西府が置かれてから,鎮西とも呼ばれるようになった九州をさす語として,平安末期以降,西国が用いられた例は少なからず見いだされる。鎌倉幕府においても,その初期には貞永1年(1232)閏9月1日の〈畿内近国幷びに西国の堺相論の事〉についての法令のように,畿内近国と区別された九州を西国といった事例がみられるのである。しかしこの畿内近国が《吾妻鏡》文治2年(1186)6月21日条にあるように,尾張・美濃・飛驒・越中以西の37ヵ国をさしていることは明らかで,この地域は三河・信濃・越後以東の諸国=東国とは明確に区別されていた。東国国家あるいは東国政権として成立した鎌倉幕府は1183年(寿永2)10月以降,この地域に統治権を行使したが,畿内近国・九州については全体として王朝国家=公家政権の統治権にゆだね,九州に関しては限定づきであるが大宰府を通じて東国に準ずる権限を及ぼしていた。これは王朝国家が関東に対して独自な立場に立つ東北の奥州藤原氏に働きかけて,幕府に対抗させようとしたのに対し,畿内に対する九州の独自性をとらえようとした幕府の政策の現れで,さきの三つの地域区分は,こうした現実の事態を表現したものにほかならない。
しかし一方,みずからの地盤である東国とは異質な地域として,畿内近国・九州全体を西国と呼ぶ用例も幕府の初期から見いだされ,東国国家としての幕府が確立するとともに,この用法が幕府においては一般的に使用されるようになった。六波羅探題の管轄地域がほぼこれに相当するが,その範囲は1235年(嘉禎1)には尾張・美濃・飛驒・加賀以西であり,1319年(元応1)三河・尾張・伊勢・志摩・美濃・加賀が除かれたこともあったが,翌年以後三河・加賀以西となり,東国と西国の境には若干の移動がみられる。しかしこのように,律令国家・王朝国家と鎌倉幕府とが相互に異質な地域と認識していた西国と東国との差異は,遠く旧石器時代・縄文時代にさかのぼり,弥生時代に稲作が早急に広がった西日本と縄文文化の伝統の強く残った東日本との違いに近い淵源を持つ根深いもので,言語・民俗・社会組織などにまで及んでいる。このうち西国は村落の年齢階梯制,座的な構造,女系の相対的な尊重,穢に対する比較的な敏感さなどの特質を持つとみられているが,この二つの地域に,二つの国家ないし政権が成立したのは,こうした差異を背景に持っていたのである。
1293年(永仁1)鎮西探題が設置され,九州が六波羅探題の管轄から離れると,さきの畿内近国に当たる諸国が西国と呼ばれるようになる。建武新政府はこうした地域区分を解消し,伊豆・甲斐を含む関東10ヵ国を鎌倉将軍府の支配下に置くにとどめ,奥羽および現在の中部地方諸国を東国から切り離した。室町幕府もこれをほぼそのままうけつぎ,さきの10ヵ国を鎌倉公方の管轄とした。しかし《園太暦》観応1年(1350)11月16日条に〈西国寺社本所領の事〉とあるように,鎌倉期の用法もなお見いだされ,東国・西国意識は鎌倉公方と室町公方の対立など,長く尾を引きつづけた。
一方,室町幕府によって九州探題が置かれた鎮西と畿内との中間の地域として中国という地域呼称が現れ,1356年(正平11・延文1)以降この地域で活動した細川頼之は〈中国管領〉と呼ばれている。この地域を一括してとらえる見方の淵源は,モンゴル襲来後,長門守護が長門探題といわれたころに求めうると思われるが,鎌倉期の西国はこのように分解し,室町期,関東・鎮西を除く諸国を道別にまとめる制規が見られる点(《武政軌範》)から,制度的地域区分としての西国は一応消滅した。しかし《日葡辞書》は西国を九州と解し,この用法は西国郡代・西国筋のごとく,江戸時代にもあるが,他方,近畿より西の九州・四国・中国を西国と呼ぶ呼称も西国衆・西国路など,民間では用いられ,西国三十三所は美濃までふくむ広義の西国の意味をとどめており,東国・西国の意識は地域意識の広い基盤として生きつづけた。なお近代に入り,《西国立志編》のように,古代の西国の意味に近い,西洋諸国を西国と称する用例も現れてくる。
→東国
執筆者:網野 善彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
東国に対し、西方の諸国をさす語であるが、時代や資料によりその範囲は一定しない。近畿から西の諸国、中国、四国、九州、とくに九州の場合が多かった。鎌倉幕府の西国守護や江戸幕府の西国郡代はおおむね九州地方を含み、中世から近世にかけての西国船(さいごくぶね)も九州地方の廻船(かいせん)であるが、江戸時代の主要街道の西国路は大坂から九州小倉(こくら)に至る中国山陽道である。しかし西国三十三所の札所は近畿から岐阜に散在するなど、明確なものではなかった。
[藁科勝之]
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…尾張は頼朝挙兵当時は,その支配領域―東国の西限に組み入れられたが,86年(文治2)地頭設置をめぐる朝廷との交渉の結果,平家没官領以外の所領での地頭停止を約した37ヵ国の中に含まれ,東国からはずされた。以後一時的な変動はあったが尾張は西国の東限とされた。東西勢力の接点に位置する尾張では,承久の乱には守護をはじめ多くの御家人が宮方に参じた。…
…石井進はこれを領主制説に対する反領主制説としているが,この2潮流は相互に交錯しつつも,二つの中世社会論として現在にいたっている。 このうち領主制説が東国の実態に比重をおき,武家政権中心にその説をたて,分権的・多元的にこの社会をとらえるのに対し,反領主制説は西国(さいごく)の状況に立脚して朝廷,大寺社に焦点を合わせ,この社会の集権的・集中的な側面に注目する。前者の立場からは東国国家,東国政権の存在を主張し,鎌倉幕府,江戸幕府の成立にそれぞれ中世,近世の起点を求める見方がでてくるが,南北朝の動乱の社会的・政治的意義を重視し,室町幕府の確立に封建国家成立の重要な画期を見いだす見解は,どちらかといえば後者の説に親近性をもつといえよう。…
…このように東国の範囲は,幕府と朝廷,鎌倉と京都との間の力関係に応じて多少の変動はあったが,おおよそ三河・信濃・越後以東については東国とする意識が強かったとみられる。
[東国と西国]
佐藤進一が第2次大戦前すでに〈東国行政権〉と規定した,鎌倉幕府のこの地域に対する権限は,国衙に対する支配権,国の境あるいは2本所間の境相論(さかいそうろん)の裁判権,棟別銭(むなべちせん)賦課を含む交通路支配権などの統治権的,地域的な支配権であり,元号の制定,官位の叙任権は王朝の手に掌握されていたとはいえ,これを東国国家と規定することは十分に根拠があるといってよい。事実,元号については,頼朝のときの治承5,6,7年,幕府最末期の元徳3,4年など王朝の元号と異なる元号(異年号)が使用され,官位についても,幕府は御家人たちに強い規制を加えていたのである。…
※「西国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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