関東申次(読み)かんとうもうしつぎ

改訂新版 世界大百科事典 「関東申次」の意味・わかりやすい解説

関東申次 (かんとうもうしつぎ)

12世紀の末に鎌倉幕府が開かれると,京都の朝廷には幕府との連絡交渉にあたる役職がおのずから生まれてきた。この役職およびその任にあたる人物は,13世紀半ば以降関東申次と呼ばれるようになった。いかなる人物がその任にあたり,いかなる活動を示すかは,その時々の朝廷と幕府との政治的な力関係によって左右された。たとえば源頼朝の時代には,もっぱら院伝奏の吉田経房が朝幕間の単なる取次ぎにあたり,承久の乱後は,重要事項については将軍頼経の父である九条道家が交渉にあたり,小事は院司が取り次ぐといったぐあいであった。やがて1246年(寛元4)幕府が西園寺実氏を関東申次に指名したことによってその制度が確立し,以後関東申次の地位は実氏-実兼-公衡-実兼(再任)-実衡-公宗と西園寺家の正嫡に受け継がれていったが,このことは鎌倉時代中・後期における西園寺家の隆盛をもたらすことになった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「関東申次」の意味・わかりやすい解説

関東申次
かんとうもうしつぎ

鎌倉時代、朝廷側の窓口として幕府との連絡にあたった役職。幕府成立時、公武間の連絡から後白河院の恣意(しい)を排除するため、源頼朝の働き掛けで設置されたと考えられる。頼朝時代には親幕派の吉田経房(つねふさ)、頼朝死後は将軍家縁戚坊門信清(ぼうもんのぶきよ)・西園寺公経(さいおんじきんつね)、承久(じょうきゅう)の乱後は公経・九条道家(みちいえ)が務め、1244年(寛元2)の公経死後、道家がこの職を事実上独占した。しかし、1246年に道家の子の前将軍頼経(よりつね)が鎌倉を追われると道家も失脚し、幕府は西園寺実氏(さねうじ)を申次に指名、ここに関東申次は制度的に確立した。以後、申次の職は西園寺家嫡流に相伝され、その職務の重要性から同家の勢力はさらに拡大することになった。

[市沢 哲]

『美川圭著『院政の研究』(1996・臨川書店)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「関東申次」の解説

関東申次
かんとうもうしつぎ

鎌倉時代の公武交渉で朝廷側の窓口となった役職。後鳥羽院政期に設置され,坊門信清・西園寺公経(きんつね)・九条道家らが任じられた。1246年(寛元4)の宮騒動で前関白九条道家,前将軍藤原(九条)頼経父子が失脚したのちは,西園寺氏世襲。鎌倉後期には皇位継承以下の主要な朝政はすべて幕府の意をうけて行われたため,幕府との唯一の窓口となった西園寺氏の権勢は絶大であった。

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世界大百科事典(旧版)内の関東申次の言及

【伝奏】より

…伝奏の数は,後嵯峨院政当初は2人であったが漸次増加し,次の亀山院政には数人が結番して当番で事にあたり,また後伏見院政には,神宮伝奏や諸寺諸社に専任の寺社伝奏が置かれるようになった。さらに,伝奏とはいわないが公家と鎌倉幕府との間を取り次ぐ役職として,関東申次(もうしつぎ)があったが,鎌倉時代を通じて西園寺家がこの任にあたっている。室町幕府が成立すると,これは武家執奏と名を変え,一時中断はあるものの西園寺家が引き続きこれを務めたが,後円融院政ごろ廃絶する。…

※「関東申次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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