西園寺実氏(読み)さいおんじさねうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「西園寺実氏」の意味・わかりやすい解説

西園寺実氏
さいおんじさねうじ
(1194―1269)

鎌倉中期の政治家。常盤井相国(ときわいしょうこく)。法名実空。父は公経(きんつね)、母は藤原能保(よしやす)の女(むすめ)全子。後鳥羽(ごとば)朝以下7朝に仕える。承久(じょうきゅう)の乱(1221)後、鎌倉幕府の支持で公家政局を握った父の後を受けて太政大臣(だいじょうだいじん)に昇り、その二女を相次いで中宮(ちゅうぐう)とし、その所生の2皇子は相次いで即位した。1246年(寛元4)北条執権時頼(ときより)が将軍頼嗣(よりつぐ)の父頼経(よりつね)を京に逐(お)ったとき、その奏によって関東申次(もうしつぎ)となり、生涯を通じてその任にあった。関東申次となったことは、皇室外戚(がいせき)たる関係とともに実氏を公武関係の枢要とし、西園寺家の権勢はいよいよ強化された。実氏はまた詩歌・文章をよくして世の推賞するところであり、その和歌は『新勅撰(ちょくせん)和歌集』以下の勅撰集に採られている。

[多賀宗隼]

『龍粛著『鎌倉時代 下』(1957・春秋社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「西園寺実氏」の意味・わかりやすい解説

西園寺実氏 (さいおんじさねうじ)
生没年:1194-1269(建久5-文永6)

鎌倉前期の公卿。公経の嫡男。父とともに幕府に親近し,栄達を極めた。太政大臣となった1246年(寛元4)には,幕府の指名によって,朝幕間の連絡交渉にあたる関東申次(もうしつぎ)に任じられて,その威勢はますます高まった。また女を後嵯峨天皇後深草天皇の中宮とするなど,皇室の外戚としても栄えた。常磐井相国と号した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「西園寺実氏」の解説

西園寺実氏 さいおんじ-さねうじ

1194-1269 鎌倉時代の公卿(くぎょう)。
建久5年生まれ。西園寺公経(きんつね)の長男右大臣,太政大臣を歴任。娘ふたりを後嵯峨(ごさが)天皇と後深草天皇の中宮(ちゅうぐう)とし,後深草天皇,亀山天皇の外祖父となる。寛元4年以降関東申次(もうしつぎ)として権勢をふるい,出家して常盤井(ときわい)入道相国(しょうこく)と称した。従一位。文永6年6月7日死去。76歳。法名は実空。日記に「常盤井相国記」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西園寺実氏」の意味・わかりやすい解説

西園寺実氏
さいおんじさねうじ

[生]建久5(1194).京都
[没]文永6(1269).6.7. 京都
鎌倉時代中期の廷臣。公経の子。父とともに権勢を誇った。寛元4 (1246) 年太政大臣となる。号は常盤井入道。

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世界大百科事典(旧版)内の西園寺実氏の言及

【関東申次】より

…たとえば源頼朝の時代には,もっぱら院伝奏の吉田経房が朝幕間の単なる取次ぎにあたり,承久の乱後は,重要事項については将軍頼経の父である九条道家が交渉にあたり,小事は院司が取り次ぐといったぐあいであった。やがて1246年(寛元4)幕府が西園寺実氏を関東申次に指名したことによってその制度が確立し,以後関東申次の地位は実氏―実兼―公衡―実兼(再任)―実衡―公宗と西園寺家の正嫡に受け継がれていったが,このことは鎌倉時代中・後期における西園寺家の隆盛をもたらすことになった。【山本 博也】。…

※「西園寺実氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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