改訂新版 世界大百科事典 「闇斎学」の意味・わかりやすい解説
闇斎学 (あんさいがく)
近世初期の儒学者山崎闇斎の提唱した学問。崎門(きもん)学ともいう。闇斎は孔子の〈述而不作〉の立場を自己の学風とし,自分の独自の見解を創出するよりは朱子の四書注解,朱子の文集や語類を精読し,主題ごとに朱子関係の文献の内容を摘録して編著を刊行した。《文会筆録》はそうした立場での程朱学百科全書ともいうべき彼の主著である。彼は程朱学の学説集成に努力するとともに,一方では日本の教学としての神道の学説集成に力を尽くし(垂加神道),理論的な儒教と神秘的な神道とを並行両立させることによって道の本質は闡明(せんめい)しうると考えた。こうした立場で従来の神道思想を集成した大著が《中臣祓風水草》と《神代巻風葉集》である。
こうして闇斎自身においては中国の道儒教と日本の道神道とが矛盾することなく調和していたのであるが,門流は当然純儒派,神道派,神儒並行派に分かれた。純儒派の門人としては浅見絅斎(けいさい),佐藤直方,三宅尚斎が崎門三傑として近世中期以後の学問に大きな影響をあたえ,闇斎の朱子学はこの純儒派の人々によって継承された。江戸中期以後全国各地で藩儒として任用されたその勢力は江戸幕府の林家朱子学と対抗する形勢を示した。一方,神道思想の提唱は純儒派の門人と闇斎との関係を疎遠ならしめ,純儒派の浅見絅斎,佐藤直方は師門を義絶されたが,跡部良顕,遊佐木斎(1658-1734)などの純儒派門人は,後に垂加神道を学び,神儒並行の学風を提唱した。この神儒並行派は江戸を中心に勢力を伸張し,武家社会の支配思想として発展した。これに対し京都を中心に発展した浅見絅斎の学風は同じ純儒派ではあるが勤王思想を提起し,反武家社会的思想を形成したのとは対照的である。
執筆者:平 重道
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報