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山崎闇斎 やまざき あんさい

美術人名辞典の解説

山崎闇斎

江戸前期の儒者・神道家。京都生。名は嘉、字は敬義、通称は嘉右衛門、別号垂加。初め禅僧となるが、谷時中儒学を学び儒者となる。のち、神道に傾倒し神儒の総合として唯一神道を提唱。それをもとに歴史の考察を試み、後世の復古運動に影響を与えた。天和2年(1682)歿、65才。

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デジタル大辞泉の解説

やまざき‐あんさい【山崎闇斎】

[1619~1682]江戸前期の儒学者・神道家。京都の人。名は嘉。別号、垂加(しでます)。禅僧となったが朱子学を学んで還俗し、江戸・京都で教授、門下6000人といわれた。のち、吉川惟足(きっかわこれたり)から神道を学び、神儒一致説を唱え、垂加神道を興した。著「垂加文集」「神代巻風葉集」など。

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百科事典マイペディアの解説

山崎闇斎【やまざきあんさい】

江戸初期の儒学(朱子学)者,神道家。名は嘉,字は敬義(もりよし)。京都の人。初め妙心(みょうしん)寺に入り僧となる。のち土佐で谷時中(じちゅう)に学び儒に転じ,京に帰り還俗(げんぞく)。
→関連項目儒家神道儒教菅野兼山聖教要録竹内式部南学野中兼山藤村庸軒度会延佳

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

山崎闇斎 やまざき-あんさい

1619*-1682 江戸時代前期の儒者,神道家。
元和(げんな)4年12月9日生まれ。はじめ僧。谷時中(じちゅう)にまなび朱子学にめざめる。正保(しょうほ)4年「闢異(へきい)」をあらわし,仏教を異端とし朱子学信奉の立場をとる。寛文5年会津(あいづ)藩主保科(ほしな)正之の師となり,その縁で吉川惟足(これたり)から神道を伝授され,神儒統合の垂加神道を創始した。崎門学派の祖。天和(てんな)2年9月16日死去。65歳。京都出身。名は嘉。字(あざな)は敬義(もりよし)。通称は嘉右衛門。別号に垂加。著作に「文会筆録」など。
【格言など】光風霽月(せいげつ)今猶(なお)在り唯欠く胸中洒落(しやらく)の人(「有感」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

山崎闇斎

没年:天和2.9.16(1682.10.16)
生年:元和4.12.9(1619.1.24)
江戸前期の儒学者,神道家。名は嘉,字は敬義,通称は嘉右衛門,闇斎は号。別号は垂加。貧しい鍼医の子として京都に生まれ,12歳で比叡山の小僧となる。13歳のとき土佐の公子,山内康豊に見込まれて妙心寺に移され,土佐藩儒の野中兼山から儒学を勧められる。15歳で剃髪して僧となり,19歳のときに土佐の吸江寺に入る。土佐南学を確立した谷時中やその門人野中兼山,小倉三省らと親しく交わって,朱子学を学び,25歳でついに仏教から儒教に転向する。ために土佐藩主の不興を買い,京都に帰る。『闢異』を著して仏教を激烈に排撃する一方,祀堂を設けて朱子の『家礼』に従って祭祀を行い,朱子の「白鹿洞書院掲示」や「敬斎箴」の注釈(集註)を著すなど,朱子学一尊の姿勢を鮮明にする。明暦1(1655)年,38歳で初めて京都で開講し,以後多くの門人に教える。41歳のときに江戸に出て以降,江戸と京都を往復して住む。48歳のとき,会津藩主保科正之に招聘されて賓師となり,命によって『玉山講義附録』を編纂する。40代から,伊勢神宮にしばしば参詣していたが,52歳のときに大宮司河辺精長から「中臣祓」の伝授を受け,54歳の年には吉川惟足から吉田神道の伝を受けて,垂加霊社の神号を授けられる。これによって垂加神道を創始して,神儒一致を主張した。 闇斎の朱子学の特色は,まず『四書大全』などの後世の学説を排して,専ら朱子の原著に戻り,これを内面的に考究体認することを重視した点にある。従って著述も,原資料を正確に整理編集したものがほとんどである。主著である『文会筆録』全20巻は,読書録というべき性格を持ち,経書や朱子学に関する重要な文章を抄録編集し,ごく簡単な評註や按文を付したものであるが,厳密な考証の手法によって朱子の成説を明らかにしている。また,博学多識に流れたり,詩文に心を配る世間の朱子学者を批判し,敬を根底として,静坐による心身の修養に基づく倫理的実践を最も重視した。これらの点で,闇斎学派は,江戸期の朱子学派のなかでも際立った性格を有していた。さらに,厳密な師弟の道を重んじ,師説を筆記して伝えたため,学派の伝承が濃密で,ある種のセクト主義も醸成された。 闇斎の門弟は6000人におよんだとされているが,佐藤直方,浅見絅斎,三宅尚斎崎門三傑と称されるほか,神道の門人に玉木葦斎などがいる。神儒兼学に反対する弟子と神道派との間に確執が生まれ,双方の学脈が明治期まで継承された。闇斎は名分を強調したが,特に節義を重視した浅見絅斎の学脈から尊皇思想が主張されるなど,幕末尊皇運動の源流のひとつになったともいわれる。闇斎は朝鮮の朱子学者李退渓を高く評価して紹介したことでも知られる。なお,現存する闇斎学派の多くの写本は,当時の口語を知るうえで,国語学的にも注目されている。<参考文献>池上幸二郎編『山崎闇斎全集』(全5冊)

(柴田篤)

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世界大百科事典 第2版の解説

やまざきあんさい【山崎闇斎】

1618‐82(元和4‐天和2)
江戸前期の儒者,神道家。字は敬義,名は嘉,通称嘉右衛門。闇斎は号。別号垂加(すいか)。京の人。浪人の子として生まれ,1632年(寛永9)京都妙心寺に入って僧となり,土佐山内氏の一族湘南和尚のすすめで,36年土佐吸江寺に住した。当時土佐には谷時中,野中兼山,小倉三省などを中心に儒学(海南朱子学)が流行しており,その影響を受けた闇斎は42年儒に転じた。のち京に帰り,次いで還俗してもっぱら純正朱子学を講じ,学ぶ者が多かった。

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大辞林 第三版の解説

やまざきあんさい【山崎闇斎】

1618~1682) 江戸前期の儒学者・神道家。名は嘉、通称は嘉右衛門。別号、垂加しでます。京都の人。初め僧になったが、朱子学に転向、朱子の本義の純化と敬義の実践を重んずる厳格主義的朱子学を主唱した。後年、吉川惟足の伝授を受けて神儒を結合、垂加神道を興した。その門下(崎門きもん)より浅見絅斎けいさい・佐藤直方らを出した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

山崎闇斎
やまざきあんさい

[生]元和4(1619).12.9. 京都
[没]天和2(1682).9.16. 京都
江戸時代前期の朱子学派の儒学者,神道家。名は嘉,字は敬義,通称は嘉右衛門,闇斎は号,別号は垂加。父は鍼医清兵衛。初め僧として妙心寺に入り,寛永 13 (1636) 年土佐吸江寺に行き,谷時中に朱子学を学んだ。還俗して儒学者として立とうとしたため土佐を追われ,京都に帰り,明暦1 (55) 年家塾を開き,名分論の尊重と峻厳な学風で知られた。万治1 (58) 年江戸に出,以後江戸と京都に半年ずつ住み,井上正利,加藤泰義,さらに会津藩主保科正之に招かれて学を講じた。寛文 11 (71) 年吉川惟足に吉田神道の伝を受け,『太極図説』と『日本書紀』神代巻を習合した神儒一致を説き,垂加神道を創始した。佐藤直方,三宅尚斎,浅見絅斎の崎門三傑をはじめ,門人がきわめて多く,6000人と称され,朱子学派,神道派,史学派の3分流となって,尊王主義の源流を形成した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

山崎闇斎
やまざきあんさい
(1618―1682)

江戸前期の儒者、神道(しんとう)家。名は嘉、字(あざな)は敬義(もりよし)。15歳で剃髪(ていはつ)して絶蔵主と称した。29歳還俗(げんぞく)して嘉右衛門と称し、儒者号を闇斎、神道号を垂加(すいか)と称した。祖父の山崎浄泉(1557―1624)は播磨(はりま)国宍粟(しそう)郡山崎村の人。初め木下肥後守家定(ひごのかみいえさだ)(1543―1608)に仕え、寛永(かんえい)元年京都に没す。父の浄因(1587―1674)も木下家に仕え、のち京都に隠居、医を業とした。
 浪人の子として京に成長した闇斎は、幼少のとき比叡山(ひえいざん)に送られて侍童となり、15歳で妙心寺の僧となる。土佐藩主山内家の一族湘南和尚(しょうなんおしょう)(?―1637)の勧めにより、土佐の吸江寺(きゅうごうじ)に転住、将来を嘱望されたが、ここで交わった谷時中(たにじちゅう)、野中兼山など海南朱子学の人々の影響を受けて帰儒還俗した。1655年(明暦1)38歳で初めて京に講席を開き、『小学』『近思録』、四書、『周易(しゅうえき)本義』および『程(てい)伝』を講じ、純正程朱学を唱導、厳密な学風と凛(りんれい)の教授法により佐藤直方(さとうなおかた)、浅見絅斎(あさみけいさい)など多数の門人を養成した。
 1657年の正月『倭鑑(やまとかがみ)』を起草しようとして京都藤森社に詣(もう)で、「親王(舎人(とねり))強識出郡倫、端拝廟前感慨頻、渺遠難知神代巻、心誠求去豈無因」(親王、強識郡倫(ぐんりん)に出ず。端拝廟前(びょうぜん)感慨しきり。渺遠(びょうえん)知り難き神代の巻。心、誠に求め去れば、あに因なからん)と賦した。神儒並行の思想的立場をいちおう確立した彼は、翌1658年江戸に東遊し、帰途伊勢(いせ)神宮に参拝する。1665年(寛文5)には4代将軍家綱(いえつな)の後見役会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)の賓師(ひんし)となり、ここにおいて純正朱子学を武家社会に広布しようとする闇斎の目的はほぼ達成された。同時に正之は日本の道としての神道に関心をもち、家臣服部安休(はっとりあんきゅう)(1619―1681)を鎌倉に幽居中の吉川惟足(よしかわこれたり)のもとに遣わして神道を就学させた。ついで正之は、惟足を藩邸に招いて自らも神道の奥秘を伝授され、土津(はにつ)の霊社号を受けた。闇斎も東下の途中伊勢神宮に参拝、1669年(寛文9)10月には大宮司の河辺精長(かわべきよなが)(1602―1688)から中臣祓(なかとみのはらえ)の秘伝を受ける。1671年8月には吉川惟足から吉田神道の秘伝を受け、垂加霊社の号を授けられ、闇斎は神道家としても独立の地位を認められるに至った。1673年(延宝1)正之の葬に会して会津に下向した彼は、このとき以後毎年の東下をやめ、京において著述と教育に専念した。1682年(天和2)9月16日二条猪熊(いのくま)の寓居(ぐうきょ)に没し、黒谷山に葬られた。65歳。翌1683年5月畢生(ひっせい)の大著『文会筆録』が梓行(しこう)された。
 闇斎の伝記としては『闇斎先生年譜』(天保(てんぽう)9年9月刊、山口重昭跋(ばつ))、出雲路通次郎編『山崎闇斎先生』(下、大正元年、御霊社刊)、『吾学紀年』(『続山崎闇斎全集』下巻所収。稲葉黙斎編、昭和12年刊)があり、その遺著は『山崎闇斎全集』5冊に集成刊行されている。同書に付載された池上幸二郎(1908―1985)の解題はもっとも信頼すべきものである。[平 重道]
『日本古典学会編・刊『山崎闇斎全集』全5巻(1936~1937/復刊・1978・ぺりかん社) ▽伝記学会編『増補 山崎闇斎と其門流』(1943・明治書房) ▽神道大系編纂会編・刊『垂加神道 下巻』(1978)』

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367日誕生日大事典の解説

山崎闇斎 (やまざきあんさい)

生年月日:1618年12月9日
江戸時代前期の儒学者;神道家
1682年没

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世界大百科事典内の山崎闇斎の言及

【闇斎学】より

…近世初期の儒学者山崎闇斎の提唱した学問。崎門(きもん)学ともいう。…

【庚申信仰】より

…庚申塔は,今日では60年に1度の庚申年に造立すると考える所もあるが,本来は3年間連続庚申講を行った18回目に,大きな供養をした記念に造立する供養塔だった。このような風潮に刺激されて,山崎闇斎が猨田彦大神(さるたひこのおおかみ)を本尊とする神道式庚申信仰を説きだす一方,修験道でもそれなりの庚申信仰を鼓吹したから,江戸時代には3通りの庚申信仰が行われていたことになる。青面金剛(しようめんこんごう)童子を庚申の本尊とする考えが定着したのも,四天王寺の庚申堂以下の庚申堂が各地に建立され,現在いわれている御利益やタブーが説かれだしたのも,江戸時代であった。…

【儒教】より

…ところで近世初期の儒者は朱子学者羅山を除いてみな宋明新儒学の受容のうえに成立した心学,心法の学ともいうべき実践的性格の濃い儒教を奉じた。その後山崎闇斎の出現とともに,朱子学が本格的に理解され受容され始めた。闇斎の学風は朱熹→李退渓の系譜を引くもので,価値的観点の強い義理の学であり,その弟子浅見絅斎,佐藤直方を通じて崎門(きもん)学(闇斎学)派という朱子学の一派が形成されてその学統は今日に及んでいる。…

【朱子学】より

…伊藤仁斎や荻生徂徠がよい例である。むろん,山崎闇斎のように,元・明の朱子学ではなく朱熹ほんらいの教義に帰ろうとした篤実な朱子学者も現れ,その学統(崎門(きもん)学派)は日本思想史の一大潮流とはなったが,上述したように反朱子学者や陽明学者に弾圧が加えられたわけではなく,思想の選択肢が比較的多様であった。また,儒教―朱子学の根の部分である礼についても,《文公家礼》を遵奉した熱心な朱子学者はいたけれども,大多数の日本人の礼俗は仏式か神式であって,儒式の冠婚葬祭はついに制度として日本に定着しなかった。…

【垂加神道】より

…近世初期の儒学者山崎闇斎(あんさい)の提唱した神道。垂加は彼の霊社号である。…

【生祠】より

…その生祠を霊社(れいしや)と称している。生前神になった事例は,山崎闇斎の垂加霊社や会津藩主保科正之の土津(はにつ)霊神がある。また松平定信は〈我は神なり〉と主張し,自己の木像を家臣にまつらせ,守国霊神と称された。…

※「山崎闇斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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