江戸前期の儒者、神道(しんとう)家。名は嘉、字(あざな)は敬義(もりよし)。15歳で剃髪(ていはつ)して絶蔵主と称した。29歳還俗(げんぞく)して嘉右衛門と称し、儒者号を闇斎、神道号を垂加(すいか)と称した。祖父の山崎浄泉(1557―1624)は播磨(はりま)国宍粟(しそう)郡山崎村の人。初め木下肥後守家定(ひごのかみいえさだ)(1543―1608)に仕え、寛永(かんえい)元年京都に没す。父の浄因(1587―1674)も木下家に仕え、のち京都に隠居、医を業とした。
浪人の子として京に成長した闇斎は、幼少のとき比叡山(ひえいざん)に送られて侍童となり、15歳で妙心寺の僧となる。土佐藩主山内家の一族湘南和尚(しょうなんおしょう)(?―1637)の勧めにより、土佐の吸江寺(きゅうごうじ)に転住、将来を嘱望されたが、ここで交わった谷時中(たにじちゅう)、野中兼山など海南朱子学の人々の影響を受けて帰儒還俗した。1655年(明暦1)38歳で初めて京に講席を開き、『小学』『近思録』、四書、『周易(しゅうえき)本義』および『程(てい)伝』を講じ、純正程朱学を唱導、厳密な学風と凛厲(りんれい)の教授法により佐藤直方(さとうなおかた)、浅見絅斎(あさみけいさい)など多数の門人を養成した。
1657年の正月『倭鑑(やまとかがみ)』を起草しようとして京都藤森社に詣(もう)で、「親王(舎人(とねり))強識出郡倫、端拝廟前感慨頻、渺遠難知神代巻、心誠求去豈無因」(親王、強識郡倫(ぐんりん)に出ず。端拝廟前(びょうぜん)感慨しきり。渺遠(びょうえん)知り難き神代の巻。心、誠に求め去れば、あに因なからん)と賦した。神儒並行の思想的立場をいちおう確立した彼は、翌1658年江戸に東遊し、帰途伊勢(いせ)神宮に参拝する。1665年(寛文5)には4代将軍家綱(いえつな)の後見役会津藩主保科正之(ほしなまさゆき)の賓師(ひんし)となり、ここにおいて純正朱子学を武家社会に広布しようとする闇斎の目的はほぼ達成された。同時に正之は日本の道としての神道に関心をもち、家臣服部安休(はっとりあんきゅう)(1619―1681)を鎌倉に幽居中の吉川惟足(よしかわこれたり)のもとに遣わして神道を就学させた。ついで正之は、惟足を藩邸に招いて自らも神道の奥秘を伝授され、土津(はにつ)の霊社号を受けた。闇斎も東下の途中伊勢神宮に参拝、1669年(寛文9)10月には大宮司の河辺精長(かわべきよなが)(1602―1688)から中臣祓(なかとみのはらえ)の秘伝を受ける。1671年8月には吉川惟足から吉田神道の秘伝を受け、垂加霊社の号を授けられ、闇斎は神道家としても独立の地位を認められるに至った。1673年(延宝1)正之の葬に会して会津に下向した彼は、このとき以後毎年の東下をやめ、京において著述と教育に専念した。1682年(天和2)9月16日二条猪熊(いのくま)の寓居(ぐうきょ)に没し、黒谷山に葬られた。65歳。翌1683年5月畢生(ひっせい)の大著『文会筆録』が梓行(しこう)された。
闇斎の伝記としては『闇斎先生年譜』(天保(てんぽう)9年9月刊、山口重昭跋(ばつ))、出雲路通次郎編『山崎闇斎先生』(下、大正元年、御霊社刊)、『吾学紀年』(『続山崎闇斎全集』下巻所収。稲葉黙斎編、昭和12年刊)があり、その遺著は『山崎闇斎全集』5冊に集成刊行されている。同書に付載された池上幸二郎(1908―1985)の解題はもっとも信頼すべきものである。
[平 重道 2016年7月19日]
『日本古典学会編・刊『山崎闇斎全集』全5巻(1936~1937/復刊・1978・ぺりかん社)』▽『伝記学会編『増補 山崎闇斎と其門流』(1943・明治書房)』▽『神道大系編纂会編・刊『垂加神道 下巻』(1978)』
(柴田篤)
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江戸前期の儒者,神道家。字は敬義,名は嘉,通称嘉右衛門。闇斎は号。別号垂加(すいか)。京の人。浪人の子として生まれ,1632年(寛永9)京都妙心寺に入って僧となり,土佐山内氏の一族湘南和尚のすすめで,36年土佐吸江寺に住した。当時土佐には谷時中,野中兼山,小倉三省などを中心に儒学(海南朱子学)が流行しており,その影響を受けた闇斎は42年儒に転じた。のち京に帰り,次いで還俗してもっぱら純正朱子学を講じ,学ぶ者が多かった。闇斎が《闢異(ぺきい)》を著して帰儒を表明したのが47年(正保4)で,55年(明暦1)初めて講席を開き,学問,生活ともに儒者として自立した。57年《倭鑑》の筆を起こさんとし,《日本書紀》の編者舎人親王の廟に詣で,〈渺遠難知神代巻,心誠求去豈無因〉と詩を賦した。58年(万治1)初めて江戸に出て諸大名に講じ,これより毎年春江戸に行き秋帰洛して〈道〉を江戸の武家社会にひろめた。65年(寛文5)の江戸下向のとき,4代将軍徳川家綱の後見人会津藩主保科正之の賓師となり,73年(延宝1)には会津に下って正之の葬儀に出,以後東下を中止して京にとどまり,著述と門下の教育に努めた。
主著に《文会筆録》20巻がある。闇斎は近世純正朱子学の大成者であるとともに中国の儒教と日本の神道との根本における冥合一致を確信,純正朱子学の提唱と併行して日本の道としての神道諸伝の総合を志し,秘伝を組織して一家の神道説を提唱した。彼の提唱した朱子学を闇斎学とよび,彼の主唱した神道説を垂加神道と称する。闇斎学を継承した人に浅見絅斎(けいさい),佐藤直方,三宅尚斎の,いわゆる崎門三傑があり,神道説は正親町公通(おおぎまちきんみち),春原信直(道翁),梨木祐之らによって継承され,玉木正英によって秘伝が組織化された。《山崎闇斎全集》(正編2冊続編3冊,1937年刊)がある。
執筆者:平 重道
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1618.12.9~82.9.16
江戸前期の儒学者・神道家。名は嘉,字は敬義(もりよし),号は闇斎・垂加。京都生れ。12歳の頃比叡山に,19歳のとき土佐国の吸江寺に寓した。南学の祖の谷時中(じちゅう)に学び朱子学に開眼,京都に帰って還俗。仏教を排斥し朱子学一尊を唱導した「闢異(へきい)」を著し,朱子学の立場を宣明した。その後10余年間,講席を開いて朱子学を教授するうち,笠間藩主井上正利,大洲藩主加藤泰義らの知遇をうけ,1665年(寛文5)会津藩主保科正之の賓師となる。正之との縁で,吉川惟足(これたり)に学び神道に接近,垂加霊社を名のる。崎門(きもん)学派の祖として多くの著名な門人を輩出し,また垂加神道を提唱した。著書「文会筆録」。
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…庚申塔は,今日では60年に1度の庚申年に造立すると考える所もあるが,本来は3年間連続庚申講を行った18回目に,大きな供養をした記念に造立する供養塔だった。このような風潮に刺激されて,山崎闇斎が猨田彦大神(さるたひこのおおかみ)を本尊とする神道式庚申信仰を説きだす一方,修験道でもそれなりの庚申信仰を鼓吹したから,江戸時代には3通りの庚申信仰が行われていたことになる。青面金剛(しようめんこんごう)童子を庚申の本尊とする考えが定着したのも,四天王寺の庚申堂以下の庚申堂が各地に建立され,現在いわれている御利益やタブーが説かれだしたのも,江戸時代であった。…
…ところで近世初期の儒者は朱子学者羅山を除いてみな宋明新儒学の受容のうえに成立した心学,心法の学ともいうべき実践的性格の濃い儒教を奉じた。その後山崎闇斎の出現とともに,朱子学が本格的に理解され受容され始めた。闇斎の学風は朱熹→李退渓の系譜を引くもので,価値的観点の強い義理の学であり,その弟子浅見絅斎,佐藤直方を通じて崎門(きもん)学(闇斎学)派という朱子学の一派が形成されてその学統は今日に及んでいる。…
…伊藤仁斎や荻生徂徠がよい例である。むろん,山崎闇斎のように,元・明の朱子学ではなく朱熹ほんらいの教義に帰ろうとした篤実な朱子学者も現れ,その学統(崎門(きもん)学派)は日本思想史の一大潮流とはなったが,上述したように反朱子学者や陽明学者に弾圧が加えられたわけではなく,思想の選択肢が比較的多様であった。また,儒教―朱子学の根の部分である礼についても,《文公家礼》を遵奉した熱心な朱子学者はいたけれども,大多数の日本人の礼俗は仏式か神式であって,儒式の冠婚葬祭はついに制度として日本に定着しなかった。…
…近世初期の儒学者山崎闇斎(あんさい)の提唱した神道。垂加は彼の霊社号である。…
…その生祠を霊社(れいしや)と称している。生前神になった事例は,山崎闇斎の垂加霊社や会津藩主保科正之の土津(はにつ)霊神がある。また松平定信は〈我は神なり〉と主張し,自己の木像を家臣にまつらせ,守国霊神と称された。…
※「山崎闇斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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