跡部良顕(読み)あとべよしあき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

跡部良顕
あとべよしあき

[生]万治1(1658)/万治2(1659)
[没]享保14(1729).1.27.
江戸時代中期の幕臣,神道家。良隆の子。母は柳生三厳の娘。通称は宮内,光海と号した。江戸の旗本であったが,幼時より聡明で読書を好み,長じて儒学を佐藤直方に,垂加流神道を渋川春海正親町公通に学び,晩年は神道に傾倒した。その間,貞享2 (1685) 年家を継ぎ,享保4 (1719) 年致仕,翌年,良顕の評判を聞いた将軍徳川吉宗から神儒両道について下問があり,同6年蔵書『伊勢風土記』『類聚国史』などを献じた。山崎闇斎の遺稿集『垂加文集』の編集,刊行に努め,また通俗神道書を多く著わして江戸に垂加神道を普及させた。『神代巻渾沌草』をはじめ著書が多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

跡部良顕 あとべ-よしあきら

1658-1729 江戸時代前期-中期の神道家。
万治(まんじ)元年生まれ。幕臣。山崎闇斎(あんさい)の垂加(すいか)神道を正親町公通(おおぎまち-きんみち)に,儒学を佐藤直方,浅見絅斎(けいさい)にまなぶ。闇斎の神儒一致の説を信奉し,また「垂加文集」の刊行などにより,闇斎学の発展と普及につとめた。享保(きょうほう)14年1月27日死去。72歳。江戸出身。通称は宮内。号は光海,重舒斎。著作に「南山編年録」「神代巻渾沌草」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

跡部良顕

没年:享保14.1.27(1729.2.24)
生年:万治1(1658)
江戸中期の垂加神道家。旗本2500石。通称孫八郎,宮内。号光海,重舒斎。役職は延宝6(1678)年から,元禄12(1699)年まで書院番を勤めたのみで,享保4(1719)年致仕。佐藤直方,浅見絅斎に朱子学を学び,山崎闇斎の垂加神道に傾倒し,渋川春海,正親町公通から伝授を受けた。神儒兼学の立場を守り,日本を中心とした華夷思想を神道の立場から説き,一般向けの著作を多数出して垂加神道の普及に努めた。その評判は将軍徳川吉宗にも達して諮問を受け,また『伊勢風土記』などの蔵書を吉宗の求めに応じて献上している。南朝正統を唱えた『南山編年録』を著した。

(針谷武志)

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世界大百科事典 第2版の解説

あとべよしあきら【跡部良顕】

1658‐1729(万治1‐享保14)
江戸中期の人。知行2500石の旗本で,名は孫八郎,通称宮内,致仕して海翁と号した。儒学を佐藤直方,三宅尚斎に学び,また神道を渋川春海に学び,闇斎学と垂加神道を継承した。ここに神儒合一を旨とする江戸派闇斎学が成立した。著書に《南山編年録》《神代混沌草》《垂加翁神説》など。【平 重道】

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大辞林 第三版の解説

あとべよしあきら【跡部良顕】

1658~1729) 江戸中期の神道家。江戸の人。幕臣。通称宮内、号は重舒斎・光海てるみ霊社。はじめ佐藤直方に学び、神道を排斥していたが、のち神儒合一論に転じた。編「垂加文集」「続垂加文集」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

跡部良顕
あとべよしあきら
(1658―1729)

江戸前・中期、垂加(すいか)派の神道家。通称は宮内(くない)、号は光海(てるみ)、重舒斎(じゅうじょさい)。明暦(めいれき)4年2月12日出生。2500石の旗本の出身。初め志貴泰賢より吉田神道を、のち竹下立庵(たけしたりゅうあん)、玉木葦斎(たまきいさい)(1671―1736)、渋川春海(しぶかわはるみ)、正親町公通(おおぎまちきんみち)より垂加神道を学んだ。その後、佐藤直方(なおかた)に朱子学を学び一時神道を離れたが、復帰して直方と義絶した。眼病のため中年公職を辞し、やがて失明するが、伴部安崇(ともべやすたか)(1668―1740)の協力を得て、いよいよ神道の学問は進み、深い信仰に達した。『神代巻渾沌草』ほか著書が多い。享保(きょうほう)14年正月27日没。墓所は東京・青山の玉窓寺。[谷 省吾]

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367日誕生日大事典の解説

跡部良顕 (あとべよしあき)

生年月日:1658年2月12日
江戸時代中期の垂加神道家;旗本
1729年没

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世界大百科事典内の跡部良顕の言及

【闇斎学】より

…江戸中期以後全国各地で藩儒として任用されたその勢力は江戸幕府の林家朱子学と対抗する形勢を示した。一方,神道思想の提唱は純儒派の門人と闇斎との関係を疎遠ならしめ,純儒派の浅見絅斎,佐藤直方は師門を義絶されたが,跡部良顕,遊佐木斎(1658‐1734)などの純儒派門人は,後に垂加神道を学び,神儒並行の学風を提唱した。この神儒並行派は江戸を中心に勢力を伸張し,武家社会の支配思想として発展した。…

※「跡部良顕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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