江戸前・中期、垂加(すいか)派の神道家。通称は宮内(くない)、号は光海(てるみ)、重舒斎(じゅうじょさい)。明暦(めいれき)4年2月12日出生。2500石の旗本の出身。初め志貴泰賢より吉田神道を、のち竹下立庵(たけしたりゅうあん)、玉木葦斎(たまきいさい)(1671―1736)、渋川春海(しぶかわはるみ)、正親町公通(おおぎまちきんみち)より垂加神道を学んだ。その後、佐藤直方(なおかた)に朱子学を学び一時神道を離れたが、復帰して直方と義絶した。眼病のため中年公職を辞し、やがて失明するが、伴部安崇(ともべやすたか)(1668―1740)の協力を得て、いよいよ神道の学問は進み、深い信仰に達した。『神代巻渾沌草』ほか著書が多い。享保(きょうほう)14年正月27日没。墓所は東京・青山の玉窓寺。
[谷 省吾 2017年10月19日]
江戸中期の人。知行2500石の旗本で,名は孫八郎,通称宮内,致仕して海翁と号した。儒学を佐藤直方,三宅尚斎に学び,また神道を渋川春海に学び,闇斎学と垂加神道を継承した。ここに神儒合一を旨とする江戸派闇斎学が成立した。著書に《南山編年録》《神代混沌草》《垂加翁神説》など。
執筆者:平 重道
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(針谷武志)
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…江戸中期以後全国各地で藩儒として任用されたその勢力は江戸幕府の林家朱子学と対抗する形勢を示した。一方,神道思想の提唱は純儒派の門人と闇斎との関係を疎遠ならしめ,純儒派の浅見絅斎,佐藤直方は師門を義絶されたが,跡部良顕,遊佐木斎(1658‐1734)などの純儒派門人は,後に垂加神道を学び,神儒並行の学風を提唱した。この神儒並行派は江戸を中心に勢力を伸張し,武家社会の支配思想として発展した。…
※「跡部良顕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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