伊勢神道の「倭姫世記」の「神垂以二祈祷一為レ先、冥加以二正直一為レ本」を「神の垂(しで)は祈祷(ねぎごと)を以て先(さき)と為(な)し、冥(くら)きの加(ます)は正直(ますぐ)を以て本(もと)為(な)す」と訓じたところの「垂加」を採り、「しでます」と称した。
山崎闇斎(あんさい)が唱道し、その門流が継承した神道。闇斎は、近世朱子学を代表する一人であるが、同時に早くより神道を学び、とくに伊勢(いせ)神道を出口延佳(でぐちのぶよし)(度会延佳(わたらいのぶよし))と大中臣精長(おおなかとみのきよなが)(河辺精長)に、吉田神道を吉川惟足(よしかわこれたり)に、忌部(いんべ)神道を石出帯刀(いわでたてわき)に聞き、在来の神道を取捨・集成して独自の境地を開いた。「垂加」とは、『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』などに伝わる「神垂(かみのしで)は祈祷(きとう)を以(もっ)て先(さき)と為(な)し、冥加(みょうが)は正直を以て本(もと)と為す」という神託の語からとって、吉川惟足より与えられた霊社号である。所依の経典は『日本書紀』神代巻と中臣祓(なかとみのはらえ)で、神道五部書、『旧事本紀(くじほんぎ)』『古語拾遺』などをあわせて尊んだ。「道は則(すなは)ち大日孁貴(おほひるめのむち)の道、教は則ち猿田彦(さるたひこ)神の教なり」といい、神籬(ひもろぎ)は「日守木」であって、祭祀(さいし)は皇統守護の祈りに極まると力説する。また、「つつしみ(敬)」がいっさいの処し方の基本だとするが、そこには朱子学のおのずからな反映もみられる。
山崎闇斎の没後、道統の中心は、遺言により正親町公通(おおぎまちきんみち)が受けたが、公通は、その門人玉木葦斎(いさい)の援助を得て、三種神宝および神籬磐境(いわさか)の二つの極秘伝をもって構成する『持授抄』を、闇斎の主著『風水草』から抜粋して編纂(へんさん)した。葦斎は、垂加神道の諸伝を整理・集成して『玉籤集(ぎょくせんしゅう)』を著している。この派の学者としては、上記のほか、出雲路信直(いずもじのぶなお)、梨木祐之(なしのきすけゆき)、大山為起(ためおき)、谷秦山(しんざん)、若林強斎(きょうさい)、跡部良顕(あとべよしあきら)、谷川士清(ことすが)などが注目されるが、垂加神道は、国学が台頭するまで、神道界最大の勢力であった。
[谷 省吾]
近世初期の儒学者山崎闇斎(あんさい)の提唱した神道。垂加は彼の霊社号である。近世は儒学が流行した時代であったが,同時に神道も思想界の一大潮流として多大の影響を与えた。その近世神道の中心的な思想が前期においては垂加神道,後期においては復古神道であった。1658年(万治1)初めて京から江戸に遊学した闇斎は以後毎年江戸に下り諸大名に講学した。その結果65年(寛文5)会津藩主保科正之に招かれその賓師となり,正之との交わりは72年正之死去のときまで変わることなく持続した。正之の知遇をうけ儒学者として闇斎の社会的地位も確立したが,当時正之は吉川惟足(これたり)に師事し熱心に神道を研究しており,闇斎も1671年54歳のとき垂加霊社という生前霊社号を惟足から授与された。これまでも闇斎は東下の途中伊勢神宮に参拝し,神道に対する関心を強め,1669年には大宮司大中臣精長から神道の秘伝を受けていたが,惟足から霊社号を授けられたことにより,惟足の吉田神道と度会延佳(わたらいのぶよし)の伊勢神道を総合する垂加神道を提唱する基礎が成立した。 73年(延宝1)以後闇斎は京都に住み,儒学の思想を集成した《文会筆録》と神道の思想を集成した《中臣祓風水草》《神代巻風葉集》の著述に力を注ぎ,中国の道としての儒教,日本の道としての神道をそれぞれ混交せずに,その思想を文献に即して究明しようとする努力を続けた。垂加神道は神儒合一思想の産物ではなく,道の発現としての儒教と神道をそれぞれ独自に究明することにより神道の本質を闡明(せんめい)したところに従来の吉田,吉川,伊勢,度会などの先在神道と異なる独自性があり,これが近世後半の古学神道に対しても大きな思想的影響を及ぼした。
執筆者:平 重道
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江戸初期に山崎闇斎(あんさい)により提唱された神道。垂加とは,伊勢の託宣にもみえる神の降臨と加護の意味で,闇斎の神号でもあった。闇斎は儒学を学んだのち,伊勢神道・唯一神道なども学び,独自の神儒習合の神道説を唱えた。その内容は,神仏習合思想を批判し,天(神)と人との一体性を強調して,朱子学の理念から心の本性を明確にするために「敬」の尊重を主張,社会体制・秩序の安定と維持を説くものであった。闇斎の神道説はその後の神道説や国学の発展に大きな影響を与え,正親町公通(おおぎまちきんみち)・土御門泰福(つちみかどやすとみ)らの門人による新たな神道説への発展・継承もみられた。
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…中世の後期に入って,神道説の仏教からの離脱は進み,儒・仏・道など諸思想を習合して神を中心と説く吉田神道が成立した。近世に入って全国の神職のほとんどが吉田神道の支配下に置かれたが,吉川惟足は儒学を摂取した神道説を唱え,吉川神道(よしかわしんとう)を学んだ山崎闇斎は,儒学の立場をさらに深めた垂加神道(すいかしんとう)を主張した。また真言僧慈雲は,記紀などの神典を密教で解釈する雲伝神道を立てたが,その主張は仏教や儒教などの思想を習合した神道を,すべて俗神道としてしりぞけ古典の精神に帰ろうとする国学の立場(復古神道)に近いものであった。…
…闇斎は近世純正朱子学の大成者であるとともに中国の儒教と日本の神道との根本における冥合一致を確信,純正朱子学の提唱と併行して日本の道としての神道諸伝の総合を志し,秘伝を組織して一家の神道説を提唱した。彼の提唱した朱子学を闇斎学とよび,彼の主唱した神道説を垂加神道と称する。闇斎学を継承した人に浅見絅斎(けいさい),佐藤直方,三宅尚斎の,いわゆる崎門三傑があり,神道説は正親町公通(おおぎまちきんみち),春原信直(道翁),梨木祐之らによって継承され,玉木正英によって秘伝が組織化された。…
※「垂加神道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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