日本大百科全書(ニッポニカ) 「阿蘭陀正月」の意味・わかりやすい解説
阿蘭陀正月
おらんだしょうがつ
江戸時代、長崎出島(でじま)のオランダ商館では、在留オランダ人が故国の生活様式と習慣に従い、太陽暦の1月1日に新年の祝宴を開いていた。この日、長崎奉行所の役人、町年寄、出島乙名(おとな)、オランダ通詞ら日ごろオランダ商館に関係の深い日本人が招かれた。長崎の人はこれを阿蘭陀正月とよんだ。出島の阿蘭陀正月の正確な起源はわからない。しかし、1663年(寛文3)ごろから商館長の日記に記録がみえ始め、しだいに年中行事化していったようすがわかる。
1786年(天明6)には、通詞の吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)(幸左衛門)が自宅でも開催した。そのとき、長崎遊学中の蘭学者大槻玄沢(おおつきげんたく)が招かれ、親しくそのようすを見て江戸に帰った。寛政(かんせい)6年閏(うるう)11月11日が太陽暦の1795年1月1日に相当するところから、すでに蘭学者のなかで指導的地位にあった玄沢は、蘭学者、蘭学愛好家をその居、京橋水谷町の学塾芝蘭堂(しらんどう)に招いて賀宴を催した。これが江戸における起源である。そのときの盛会なようすは、今日早稲田(わせだ)大学図書館所蔵の『芝蘭堂新元会図』(大槻家旧蔵)として知られている。この大槻家の阿蘭陀正月(新元会ともいう)は、玄沢の子玄幹の没する1837年(天保8)まで開催されたという。賀宴の趣旨は、もちろん好奇の舶来趣味に発するところであるが、一方では西洋の医聖の肖像を掲げてその業の発展を期し、新来の学問としての蘭学の大成を祝い、かつ願う心から発したものと見受けられる。
[片桐一男]
『大槻茂雄編『磐水存響』(1912・私家版)』▽『長崎市編『長崎市史 風俗編』(1981・清文堂出版)』