阿部 展也
アベ ノブヤ
昭和期の洋画家,美術評論家
- 生年
- 大正2(1913)年2月4日
- 没年
- 昭和46(1971)年5月6日
- 出生地
- 新潟県
- 本名
- 阿部 芳文
- 学歴〔年〕
- 京浜中学中退
- 経歴
- 独学で絵を学び昭和7年、独立展に初入選。写真も学びながら12年「妖精の距離」を刊行。14年、福沢一郎らのシュールレアリスム団体美術文化協会結成に参加。第1回展に「地球創造説」などを出品。同年、中国東北地方とモンゴルを旅行。16年から陸軍報道班員としてフィリピン滞在。復員後、美術文化協会に復帰したが、27年、同会を脱退。無所属となり、現代日本美術展、東京国際美術展などに出品、28年、国際造形芸術連盟(IAPA)代表としてインドに滞在。30年、ニューヨークで個展、31年、ユーゴスラビアIAPA大会に出席。33年一時帰国、34年からローマに定住した。イタリア各地でグループ展や個展を開き、日本現代美術展にも出品し、「遙かなりイタリアの10年」を芸術新潮に連載した。46年、ローマで客死したが、49年5月、神奈川県立近代美術館で遺作展が開かれた。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
阿部展也
あべのぶや
(1913―1971)
洋画家。新潟県生まれ。本名芳文。東京の京北中学校を4年で中退し、1932年(昭和7)第2回独立展に入選、独立研究所で学ぶ。1937年滝口修造と詩画集『妖精(ようせい)の距離』を刊行。創紀美術協会を経て、1939年美術文化協会の創立に参加、また写真造形研究会に加わる。1941年からフィリピンで軍報道部の仕事をし、1946年(昭和21)復員。1949年日本美術家連盟が発足して常任理事、のち国際造形芸術連盟執行委員となる。抽象作品により国内、海外の国際展で活躍。1962年よりローマに移り、同地で没した。1971年現代日本美術展で『R‐3』は東京国立近代美術館賞を受けた。
[小倉忠夫]
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阿部展也【あべのぶや】
画家。新潟県生れ。本名芳文。京北中学中退。独学で絵を学ぶ。1932年独立展入選。美術文化協会に同人として参加。1941年―1946年日本軍事報道部員として主にフィリピンで過ごす。1951年サン・パウロ・ビエンナーレに出品。1959年以降ローマに定住。シュルレアリスム的な作品から晩年の円形を主とした抽象まで,実験的な制作を行った。1974年神奈川県立近代美術館で回顧展。
→関連項目宮脇愛子
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阿部展也 あべ-のぶや
1913-1971 昭和時代の洋画家。
大正2年2月4日生まれ。独学により絵をまなぶ。昭和12年詩画集「妖精(ようせい)の距離」を刊行。14年美術文化協会の創立に参加し,「地球創造説」などを出品。戦後,国際造形芸術連盟執行委員。昭和46年5月6日移住先のローマで死去。58歳。新潟県出身。本名は芳文。作品に「R-3」など。
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阿部 展也 (あべ のぶや)
生年月日:1913年2月4日
昭和時代の洋画家;美術評論家
1971年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報