日本歴史地名大系 「雲光寺」の解説 雲光寺うんこうじ 鳥取県:西伯郡会見町御内谷村雲光寺[現在地名]会見町御内谷御内谷(みうちだに)集落の北部にある。金竜山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観音。越前竜泉(りゆうせん)寺(現福井県武生市)開山寂霊の弟子自性によって明徳年間(一三九〇―九四)に開かれ、当初は丹波永沢(ようたく)寺(現兵庫県三田市)の末寺であったと伝える。戦国期、尼子氏や南条氏が帰依し、久米郡和田(わだ)村定光(じようこう)寺(現倉吉市)道青を迎え中興開山としたという(伯耆志)。尼子氏滅亡後は毛利氏の保護を受け田地を寄せられている。天正五年(一五七七)一一月七日の寺領坪付(伯耆志)によれば寺領は田畠一町二反、分銭一〇貫目の地であった。近世には定光寺の末寺とされ、元和四年(一六一八)池田光政から屋敷分五石を寄進され、寛永一〇年(一六三三)以降は三石余の寺領を有していた(同書)。 雲光寺うんこうじ 山梨県:山梨市下井尻村雲光寺[現在地名]山梨市下井尻塩山市上井尻(かみいじり)との境付近にあり、同市向嶽(こうがく)寺のある塩(しお)ノ山から西方約一・五キロの地点にあたる。神竜山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は地蔵菩薩。保元三年(一一五八)甲斐源氏安田遠江守義定が開基し、了寿開山の真言宗の寺と伝える。応永二年(一三九五)夢窓国師の高弟絶海中津が当山の中興開山となり、臨済宗に改宗、京都妙心寺末になったという。慶長八年(一六〇三)に寄進された寺地二三五坪は黒印地であった(甲斐国志)。境内の末寺寿仏(じゆぶつ)庵跡に三基の大五輪塔(総高一・七五―一・九九メートル)があり、中央は安田義定塔、西が安田義資塔、東が安田義季塔と伝える。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by