青谷村(読み)あおたにむら

日本歴史地名大系 「青谷村」の解説

青谷村
あおたにむら

[現在地名]柏原市青谷

高井田たかいだ村の東、大和川の亀瀬かめのせ峡谷の北の山地に立地。青谷川沿いに集落がある。標高五〇―一〇〇メートルほど。古代の大県おおがた鳥取ととり(和名抄)の地と考えられており、大和川に架かる国分寺こくぶじ大橋の西方、青谷の市営グラウンド付近から奈良時代の瓦片が発見され、鳥取廃寺跡・青谷廃寺跡とか国分尼寺跡とかいわれてきた。またこの一帯は鳥取千軒という言伝えもあった。昭和五九年(一九八四)五月、この遺跡地が発掘調査され、奈良時代の複弁蓮華文軒丸瓦や均正唐草文軒平瓦のほか、側面を底部凝灰岩で敷いた雨落溝や建物間の石敷遺構が発見された。


青谷村
あおやむら

[現在地名]天竜市青谷

わたしま村の西、阿多古あたご川下流域に位置する。中世阿多古郷のうち。地内の神明宮が所蔵する永禄四年(一五六一)一一月二五日の棟札銘に檀那青谷藤原長吉、筆者坪井藤左衛門の名がみえる。永享七年(一四三五)一〇月二五日、青谷左衛門次郎は吉良義尚から「浜松庄里郷」内の地を与えられている(「吉良義尚下文」中村家文書)。弘治三年(一五五七)一一月二七日に左衛門次郎の子息青谷弥太郎が、父の給分であった「阿多古青谷村」内の地を今川義元から安堵されている(「今川義元判物」同文書)


青谷村
あおやむら

[現在地名]真岡市青谷

小貝こかい川左岸、八溝やみぞ山地の西麓、谷間に位置する。天正年中(一五七三―九二)まで田野たの(現芳賀郡益子町)城主羽石領で田野郷に属し、同一三年羽石氏が滅亡すると結城氏家臣水谷領(のちの下館藩領)となる(水谷蟠竜記)。寛永一九年(一六四二)幕府領、その後移動があるが、元禄一〇年(一六九七)から再び幕府領。元和九年(一六二三)検地帳(日下田文夫文書)によれば、反別一二町三反余(田五町九反余・畑五町九反余・屋敷四反余・茶数二六歩)、高一二七石三斗余(田方六七石六斗余・畑方五四石余・屋敷五石五斗余・茶数二斗余)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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