改訂新版 世界大百科事典 「非同盟諸国会議」の意味・わかりやすい解説
非同盟諸国会議 (ひどうめいしょこくかいぎ)
非同盟諸国がほぼ3年ごとに開催している首脳会議。正式名称は〈非同盟諸国国家元首・政府首班会議〉であるが,元首や首相の出席率は低下の傾向にある。第1回会議は,1961年9月1~6日ベオグラード(ユーゴスラビア)で開催。参加国(団体を含む,以下同じ)25,その他(オブザーバーとゲスト,以下同じ)3。ベルリン危機等の国際緊張にさいして〈戦争の危機と平和のアピール〉を発表し,一般宣言のなかで植民地主義・帝国主義への反対を主張した。第2回会議は,64年10月5~10日カイロ(当時アラブ連合)で開催。参加国47,その他10。米ソ間の緊張緩和を反映し,経済開発を重視する傾向が強まったが,中ソ対立の影響で内部論争も激化した。第3回会議は,70年9月8~10日ルサカ(ザンビア)で開催。参加国54,その他9。国連による開発計画の失敗が指摘され,経済的自立の必要性が強調された。第4回会議は,73年9月5~9日アルジェ(アルジェリア)で開催。参加国75,その他11。東西間でデタントが進行する一方,第三世界の資源ナショナリズムが高まり,会議でも天然資源への恒久主権が強調された。第5回会議は,76年8月16~19日コロンボ(スリランカ)で開催。参加国86,その他16。〈新国際経済秩序〉の樹立を主張したが,参加国内部の政治的態度や利害の対立もより鮮明になった。第6回会議は,79年9月3~6日ハバナ(キューバ)で開催。参加国93,その他20。第三世界各地での紛争多発を反映し,カンボジア代表権,エジプト資格停止等の問題をめぐる対立がこじれた。招待国キューバが親ソ路線を正面から打ち出したことも穏健派諸国の反発を呼び,運動分裂の危機がとりざたされた。第7回会議は,82年9月にバグダード(イラク)で開催予定のところ,イラン・イラク戦争のため流産し,83年3月7~12日にニューデリー(インド)で開催された。参加国97,その他2。
執筆者:木戸 蓊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報