アルジェリアの首都。人口約157万(1998)。アラビア語ではジャザーイルal-Jazā'irといい,首都名と国名をかねる。北部アルジェリア,地中海沿岸のほぼ中央に位置し,北緯37°,気候は地中海式気候である。アルジェ湾の西端にあり,南東は平野につながるが,東は海,西はサヘルと呼ばれる標高250mの丘陵が背後に迫っているため平地が乏しく,アルジェは典型的な坂の町である。
町の歴史は,北端にある小島を利用してフェニキア人が通商拠点を築いたことに始まり,ローマ時代にはイコシウムIcosiumと呼ばれた。10世紀になってジール朝のアミールが町を建設し,ジャザーイル(アラビア語の〈島〉の複数形)と命名した。町の規模は小さかったが商業活動がさかんで,一時期ハンマード朝の支配下に入ったが,都市国家として市民の自治体制が続いた。16世紀にスペインが島を占領した後,これを放逐するために市民がオスマン帝国海軍の支援をもとめ,それを契機にアルジェのみならずアルジェリア全土がオスマン帝国の支配下に入った。太守(ベイ,後にデイdeyと呼ばれた)がアルジェに住み,全土を治めたことからアルジェリアの統一と首都としてのアルジェの基礎がつくられた。行政,海賊貿易と国内商業の拠点として栄えたアルジェ市の人口は,18世紀には10万人に達した。港と丘陵の中腹の城砦の間をはい上がるように上に延びた市街は城壁で囲まれ,モスク,スーク,商人宿(フンドゥク)が立ちならぶイスラム都市となった。その後城壁は撤去されたが,この部分がカスバと呼ばれる現在の旧市街である。
1830年,フランスのアルジェリア征服以降,軍事的拠点と植民地行政の中心地となったアルジェに,フランス人ほかのヨーロッパ人が流入し,フランス本国との連絡のための港湾施設と国内交通網が整備されて,植民地都市としてのアルジェの発展がはじまった。80年ころからの農業・鉱業の開発による商業地域の拡大充実,第1次大戦後の建設ブームと軽工業の発展による工業地域と住宅地域の拡大を通じて,第2次大戦後の人口は30万人をこえ,現在のアルジェ市がほぼできあがった。すなわち,旧市街であるカスバの下から海岸にそって南にのびる行政機関,銀行,商店などの中層ビルのつらなる商業地域,その南の海ぞいは工業地域があり,両者の西側はカスバの北側とともに住宅地域で,アパートや一戸建てが傾斜地を丘陵の上部まで埋めつくしている。カスバと周辺部のスラム街を除けば,アルジェは南ヨーロッパの都市と同様の景観をもつ白亜の近代都市に変容した。
1962年の独立後,30万人をこえたヨーロッパ人市民はほとんど引き揚げたが,地方からの大規模な人口流入で人口は20年間にほぼ倍増した。首都圏への人口集中を抑制するために,政府は工業の地方分散,地方都市と農村への人口定着をはかったが,その効果は乏しく,まず既成の市街地の過密化,次いでかなり無秩序な市街地の拡大が進行した。そのため住宅・交通事情の悪化,公害や水不足など深刻な都市問題をかかえている。カスバやスラム街など一部では再開発がはじまったが,地形の制約から市街地の大規模な再開発は難しく,行政機構の近郊への移転計画がある。
執筆者:宮治 一雄
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北アフリカ、アルジェリアの首都。国の政治、経済、学術・文化、交通の中心地である。人口151万9570(1998)、271万2944(2008センサス)。アラビア語ではアル・ジャザイルal-Jazā'ir、El Djazaïrといい、「島」という意味である。10世紀、アルジェ湾の北西端にある島々と岬とを連結して人工陸繋(りくけい)島とし、その内側に強い北西の風波を避ける港をつくったのでこの名がある。湾を囲む標高150~200メートルの丘の斜面に白い地中海風の建物の並ぶ市街が広がる。
フェニキア、ローマ時代は、イコシウムIcosiumとよばれる植民都市の一つであった。10世紀に港が築かれ、16世紀オスマン帝国領となり、アルジェに総督府が置かれてから、アルジェリアの政治、経済の中心として発展した。港から丘の中腹にかけ城郭都市(カスバ)がつくられ、18世紀には10万の人口を有した。植民地時代にはフランス総督府が置かれ、カスバの東西にヨーロッパ風の市街地が形成されていった。鉄道の始発駅ができ、東側に近代的港湾や工場地帯もつくられて、市街地は東のエル・ハラーシュと丘の上に拡大した。都市人口はヨーロッパ人のほうが多かったが、1951年、アルジェリア人人口がヨーロッパ人人口を上回り、市街地の周辺ではスラムが増加した。第二次世界大戦後は、サハラの石油ブームで高層ビル、高層アパートの建築が盛んになり、フランスの建築家ル・コルビュジエも都市計画に参画した。独立戦争中フランス軍は周辺の村落を破壊したので、都市流入人口はさらに増加した。
1961年のアルジェリアの独立のころ、81万の人口のうち35万人を占めたヨーロッパ人は、独立と前後してほとんど引き揚げ、残された不動産は国有化された。政府は社会主義を指向し、政治、経済の管理中枢は首都に集中し、工場も近郊に立地したので、爆発的に人口が増加した。独立後45万に減少した人口は1966年に90万人と倍増し、1977年には134万人に達した。人口集中は、深刻な住宅難、交通渋滞、駐車場難、夏の水不足、学校・教師の不足、多数の失業者などの問題を生じている。このため衛星都市の人口吸収、外国公館の郊外移転など人口分散計画をたてている。カスバの麓(ふもと)からアガ駅までの帯状の地域に国家機関が集まり、中央業務地区になっている。これに平行するベンメヒディ・ラルビ通りからディドゥシュ・ムラド通りにかけてが繁華街である。名所として、映画『望郷(ペペルモコ)』『アルジェの戦い』で知られる旧城郭都市カスバ、バルトー博物館、古代博物館、植物園などがある。近郊にファリ・ブーメディエン国際空港がある。
[藤井宏志]
カスバは1992年、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「アルジェのカスバ」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。
[編集部]
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地中海に臨むアルジェリアの港市。16世紀にスペインに従属。その後オスマン帝国が支配。1830年フランスが占領,以後アルジェリア支配の拠点となる。現在アルジェリア民主人民共和国の首都。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…マグレブ諸国ではカスバと発音し,次のような三つの意味で用いられる。第1は,ラバト,チュニスのように,城壁で囲まれていた都市の一画で,とくに城砦の部分を呼ぶ場合,第2は,地方の小さな砦や地方官の邸またはそれらのある町全体をさす場合(とくにモロッコ),第3に,アルジェのように植民地化以降広がった新市街に対して,アルジェリア人のみが居住する旧市街をさす場合,である。アルジェでも本来は旧市街にある城砦をカスバと呼んでいたが,ヨーロッパ人が誤用して旧市街全体をさすようになったものである。…
※「アルジェ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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