翻訳|Colombo
セイロン島西岸にある港湾都市でスリランカの前首都。同国の貿易、交通はもとより文化の中心地でもある。人口64万2163、周辺都市のデヒワラ、マウント・ラビニア、モラトゥワなどをあわせた都市圏人口は122万1904(2001)。熱帯モンスーン気候下にあり、年平均気温26.9℃、年降水量は2397ミリメートルに達する。港は30~40隻の船が寄港可能で、茶、ゴム、カカオ、コプラなどを輸出するほか中継貿易が活発である。鉄道は南はマタラ、北は海岸線に沿ってプッタラム、東はキャンディなどと連絡している。
市の中心街フォート地区は官庁・ビジネス街で、大統領官邸、1837年に灯台として建造された時計塔、銀行、商社などがある。その南部にベイラ湖があり運河で港と結ばれている。港の南岸沿いに緑地公園のゴール・フェイスがある。フォート地区の東にあるペッター地区は、イスラム商人やタミル人のバザール街で、宝石店や青物市場がある。南東部のシナモン・ガーデンは高級住宅街で、その付近にコロンボ博物館、市庁舎、国際会議場などがある。港付近には製粉、たばこ、茶などの工場があるが、近代的な工場は東部の縁辺地域に立地する。新国会議事堂と官庁都市は中心部の南東9キロメートルに建設されている。また東方11キロメートルには仏教聖地のケラニヤ、南方13キロメートルにはリゾート地として有名なマウント・ラビニア、北方34キロメートルにはコロンボ国際空港がある。
[吉野正敏]
地名の起源はコランバという果樹に由来し、シンハラ語の古文典は、この語を「海港」「城塞(じょうさい)」の意に用いている。またポルトガル人がコロンブスにちなんで改称したともいわれる。海洋交易の要地で、10世紀にはアラブ商人の居留地ができていた。14世紀に近郊のコーッテーに、シンハラの王臣で姻戚(いんせき)でもあった、南インド商人出身の豪族アラガッコーナーラ家の居城ジャヤバルダナプラが造営され、15世紀初めシンハラの王がここに遷都した。コロンボの交易の利に着目したものであろう。16世紀初めにはポルトガル人がコロンボに築城し、16世紀なかばにはコーッテーの王ダルマパーラをカトリックに改宗させ、16世紀末には彼の領土をポルトガル王に寄贈させた。コロンボはそれ以降1656年までポルトガル領、ついで1796年までオランダ領、1948年までイギリス領セイロンの植民地政庁所在地となり、独立後、85年の遷都までセイロン(スリランカ)の首都となっていた。
[高畠 稔]
スリランカ民主社会主義共和国の前首都。人口64万(2001)。1505年にポルトガルの船隊が漂着し,17年にニッケイ貿易のための商館を築いて以来,1656年から1796年までのオランダ領時代,それにつづく1948年までのイギリス領時代を通じて,西ヨーロッパ列強によるスリランカ支配の中心であった。コロンボ市の東部に隣接したスリ・ジャヤワルダナプラ・コーッテ市に建設された国会議事堂の完成とともに,行政機関も徐々に移転し,コロンボの首都機能を分散させる計画が1982年から実施され,85年1月からスリ・ジャヤワルダナプラ・コーッテに首都は移転した。かつて要塞の築かれていたフォート地区は,今日商業活動の中心地に変貌してしまっている。
植民地経済の発展と運命をともにしてきたこの港湾都市は,宗主国から輸入する工業製品,宗主国へ輸出する香料,コーヒー,紅茶,ゴム,ココナッツなどの農産物を中心に,コロンボ港を基点にして市域を拡大してきた。独立を達成した後は,工業化に力を入れる政策が採用され,南と北の双方にスリランカ最大の工業地帯が形成されつつある。とりわけコロンボ市の北部からカトナヤカ国際空港に至る一帯は,1978年より〈自由貿易地帯〉に指定され,大コロンボ経済委員会Greater Colombo Economic Commissionに統轄され,外国企業の誘致が推進されている。
多民族国家スリランカの首都にふさわしく,コロンボにはシンハラ人,タミル人,マラッカラム人(アラブ・インド系イスラム教徒),バーガー人(ヨーロッパ人との混血による民族集団)などが混住し,仏教だけでなくヒンドゥー教,イスラムおよびキリスト教の宗教施設も多い。教育,医療,文化の施設が整備され,残余の農村地帯との格差拡大が大きな社会問題となっている。コロンボ市に隣接するデヒワラ・マウント・ラビニア市,モラトゥワ市およびスリ・ジャヤワルダナプラ・コーッテ市を含めると,人口約100万の大都市となる。
執筆者:中村 尚司
薬用植物として知られるツヅラフジ科のつる性木本。葉は大きく,掌状に切れ込んでいる。雌雄異花。雄花は細長い総状の円錐花序につく。雌花は総状花序につく。萼片6枚,花弁6枚,雄花ではおしべ6本,雌花ではめしべ3本。実は核果で,たくさんのとげがある。J.columba,J.miersii,J.macranthaなどが熱帯アフリカに分布している。
J.columba Miers.は塊根が生薬となり,アルカロイド,パルマチンpalmatine,ヤテオリジンjateorhizineなどを含み,苦味健胃薬として家庭薬の配合原料となる。現在では主にインドで栽培され,そこから世界各地へ輸出されている。
執筆者:寺林 進+新田 あや
イタリアの医者。クレモナに生まれ,ベネチアとパドバで医学を学ぶ。1544年A.ベサリウスのあとをついで,パドバ大学で解剖学と外科を講じた。46年ピサ大学に移り,2年後に法王パウロ4世の招きでローマに赴いた。59年出版の遺著《De reanatomica(解剖書)》のなかに,左右心室中隔の閉鎖性と肺循環を述べ,のちのW.ハーベーの血液循環説に寄与した。コロンボが生前セルベトゥスの肺循環(1553)を知っていたかどうかは,いまだにわかっていない。
執筆者:古川 明
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1985年までスリランカの首都。16世紀以来香辛料などの南海貿易の中継港として栄えた港湾都市。1656~1796年のオランダ領時代,つづく1948年までのイギリス領時代を通じてスリランカ植民地経営の中心となった。48年の独立後もコロンボ港を中心として発展し,香辛料,コーヒー,紅茶などの輸出,工業製品輸入の中心となっている。近年都市化が進み,環境悪化などが大きな問題となっている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
… 15世紀初頭に鄭和の船隊が来島し,中国(明朝)の朝貢国となるが,植民地として実質的な支配を受けることはなかった。1505年にポルトガルの艦隊がコロンボ近くに漂着した。この頃,南部のシンハラ王朝は分裂し,三つの小王国に分かれていた。…
※「コロンボ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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