国際関係の緊張緩和を指す用語。デタントはフランス語で本来〈弛めるdétendre〉という行為と,その結果生まれた〈弛んだ〉という状態とを意味する。1962年10月のキューバ危機を契機に,フランスのド・ゴール大統領が東西関係において達成されるべき発展過程を,デタント,アンタントentente(相互理解),コーペラシオンcooperation(協力)と表現して以来,広く用いられるようになった。一般的には,この言葉は紛争解決における非軍事的形態の使用ならびに相反する目標と利害の平和的調整の探究によって特徴づけられる東西関係の一定の状態を表すのに使われる。したがってデタントは,紛争状態(たとえば冷戦)から平和の状態(たとえばヨーロッパ平和構造)への移行の一局面とみなすことができる。そして,そのような状態を生むための方法として,デタント政策が追求されることになる。つまりデタントはそれ自体目的であり方法でもある。とすれば,デタントの意味が,東西間のみか,西側内部でも異なり,それが原因でデタントが崩れるのも不思議ではない。
たとえば,東方政策で東側とのデタントに成功を収めた西ドイツのブラント首相の場合には,目的-手段のこの二重性が濃厚であった。すなわち,デタントは,武力の否認と現状維持(ステータス・クオstatus quo)の相互尊重に立脚し,和解,理解,協力という継続的段階をもつ長期的な過程として認識されて,その目標は,まずNATO(ナトー)とワルシャワ条約機構間の軍事的対決を軍備管理と政治的・経済的協力の増大によって緩和し,もってヨーロッパの安全保障システムの安定化をはかり,それをさらに東西の政治的・社会的体制の漸進的融合を含むヨーロッパ平和構造へと発展させるという遠大な構想であった。事実,ブラントの下で実現された西ドイツ・ソ連間,西ドイツ・ポーランド間の和解条約(1970)と両独基本条約,米英仏ソ間の4国ベルリン協定(1972)の締結によって,戦後ヨーロッパの現状に異議申立てする国はなくなり,ヨーロッパの緊張の条件が削減されたのみか,東西貿易や人的交流も拡大して,長期的には東欧の変化を促すインパクトを与えた。しかし,1973年以降,西ドイツのデタント主導は鈍る。アメリカの全般的なデタント政策に従属することを余儀なくされたからであり,またデタントはドイツ問題の解決に西ドイツが主導権をもちえた戦術的概念であって,決して長期的な構想実現の戦略ではないことが明らかとなったからである。
これに対し,1969年以降のニクソン=キッシンジャーのデタントの概念は,ベトナム戦争で政治的・軍事的威信を失い,ドルの力の低下に悩んでいたアメリカが世界政治での主導力を回復して,多極化時代の秩序を再構築する方途として採用された外交戦略であった。ここで秩序とは,米中ソ間の政治的・軍事的安定化と米欧日間の経済的利害関係の調整のうえにつくられる〈安定的な平和の構造〉だが,その核は対ソ・デタントであり,それは戦略兵器制限交渉SALT Ⅰ(1972)と核戦争防止協定(1973)の締結に結実した。その原則は,軍事対決の回避,相互安全保障の利害の認識,他国内政に対する不干渉,武力と戦略的兵器の制限,経済的,科学的,技術的,文化的協力であるが,米ソ共通の利益の観点からなされる世界の危機管理といった趣をもつ。ときにフランス人や中国人から米ソの共同支配のための戦略とみなされるわけである。とはいえ,これらの延長上に米ソを加えた全ヨーロッパの大規模なデタントがはかられる。まず75年のヘルシンキでのヨーロッパ安全保障協力会議(CSCE)での最終文書の採択であり,この政治的デタントを実際上補完する軍事的デタントとしての中部ヨーロッパ相互兵力削減交渉(MBFR)である。ヨーロッパにおけるデタントの制度化は,類似の対話のチャンネルをもたない東アジアの流動的な状況といちじるしい対照をなしている。
しかし,これを頂点としてデタントは急速に衰弱する。ひとつには米ソのデタント観の相違が顕在化したことである。ソ連にとってデタントは東西関係に適用される限定的なものであり,第三世界での民族解放闘争の支援と矛盾しないのみか,社会主義に有利になるような現状変革に役立つとさえ位置づけられてきたのである。こうして1975年ソ連のアンゴラ介入と親ソ政権の樹立以来,アメリカ内部ではデタント論に対する疑義が提起され,77年CSCEベオグラード会議でのイデオロギーのデタント拒否とソ連のIRBMであるSS20配備に象徴される軍事力増強化の現実をまえに,デタントの失敗がいわれるようになる。そしてソ連のアフガニスタン侵攻(1979)と,それへのアメリカの過剰反応による〈新冷戦〉状況の出現によって,デタント死滅論が唱えられるにいたった。しかし今度は,70年代に東側との貿易と人的交流の拡大・深化でデタントの果実を享受し,安全保障のうえでもデタントが現実的必要であると認識する西欧諸国と対ソ強硬路線をとるアメリカとの間でデタント観の相違が顕在化して,デタント論争から米欧亀裂へと進んだ。
デタントがこのように不安定なのは,単にデタント観の違いに起因するのにとどまらない。冷戦体制下でのデタントの内在的ダイナミズム,すなわち東西間の現状の法的な承認は安定化要因ではあるが,東西間の接触の増大は事実上の東西融合化の促進となり,かえって東西間の不安定化要因ともなる。東欧のユーロコミュニズム化を警戒するソ連が東欧締付けを強化し,結果的に西側との間に緊張をつくることになったのは,その一例であった。
→冷戦
執筆者:高柳 先男
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国際関係における緊張緩和のことをいうが、国際政治史のうえでは1970年代の米ソ(アメリカとソ連)の和解と、それに伴うヨーロッパでの東西協調の実現のことをさす。第二次世界大戦後の米ソ関係は1955年のジュネーブ四大国首脳会談前後を例外として、1950年代後半のミサイル競争、1960年のU‐2型機撃墜事件、1962年のキューバ危機と緊張状態が続いた。しかしこのころからフランス、中国が米ソ二極支配に反発、加えてアメリカはベトナム戦争の泥沼化で、またソ連も中ソ対立によって、それまでの二大陣営内の米ソの優位が崩れた。このため米ソは1963年の部分的核実験停止条約の調印を機に急速に和解に向かい、1968年の核不拡散条約、1970年の米ソ戦略兵器削減交渉(SALT)の開始、1972年のニクソン米大統領の訪ソとSALT‐Ⅰ協定の調印、1973年のブレジネフ・ソ連書記長の訪米と核戦争防止協定の調印という形で、予期せぬ協調関係が展開した。
こうした情勢を受けてヨーロッパにも緊張緩和が醸成され、1970年にソ連・西ドイツ間の武力不行使条約とポーランド・西ドイツ間の国交正常化条約が成立、また戦後対立が続いていた東西ドイツ間にも1972年に国家関係基本条約が調印され、両国は1973年国連同時加盟を実現した。こうして米ソの緊張緩和と東西ヨーロッパの和解は1975年のヘルシンキにおける全欧安保協力会議の開催と1979年の米ソ第二次SALT協定の調印で最高潮に達した。しかし1980年代に入るとふたたび米ソの関係は悪化し(第二次冷戦)、1970年代のデタントに終止符が打たれた。
[藤村瞬一]
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…しかしこの40年以上の時期は,高度に緊張した米ソ関係が続いたのではなく,緊張が緩んだ時期がそれに続いてきたといえる。この緊張が緩んだ時期を〈デタント(緊張緩和)〉の時期という。 ここでは,まず〈構造としての冷戦〉を,続いて〈状況としての冷戦〉を説明する。…
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